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新指定・登録文化財 第20回京都市文化財

ページ番号5509

2020年4月6日

 京都市では京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。平成14年も3月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに6件を指定しました。(平成14年4月1日告示)。

建造物

天寧寺(てんねいじ) 3棟(指定)
第20回京都市指定文化財の写真

〔京都市北区天寧寺門前町〕
 天寧寺は禅宗の一派,曹洞宗の寺院で,境内の主要な建物は,天明8年(1788)の大火によって旧堂が類焼した後,19世紀前期から中期にかけて建てられたものである。
 本堂は6室からなる大規模な建物で,正面・側面に畳縁,その外側に落縁(おちえん)をまわし,正面に向拝(こうはい)を設ける。室内前列は室境に鴨居(かもい)・欄間(らんま)を設けず,1つの空間としている。後列中央の仏間には来迎柱(らいごうばしら)を立て,本尊を禅宗様の(ぜんしゅうよう)の須弥檀(しゅみだん)の上に安置している。棟札(むなふだ)などにより文化7年(1810)に上棟されたことがわかるが,文化15年頃までは造作が行われていたようである。なお本堂正面には控柱(ひかえばしら)が出桁(だしげた)を直接支える構造の中門(ちゅうもん)がある。
 書院は寺伝によると天保14年(1843)の造立で,書院としては規模の大きい伝統的な和風の建築物である。床の間・床脇・付書院(つけしょいん)をもつ15畳の上の間と,同じく15畳の下の間からなり,北・西・南の三方に入側縁(いりかわえん)をまわしている。西入側縁の北側には1間四方の室が張り出している。
 表門は規模の大きい薬医門(やくいもん)形式の門で,安政4年(1857)に建立された。細部の意匠や構造に禅宗様の要素が見られる。
 本堂以下のこれらの建物は,江戸時代後期の伽藍の形態をよく伝えている。市内においては数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重である。

美術工芸品

板絵著色釣狐図(いたえちゃくしょくつりぎつねず) 1面(指定)
第20回京都市指定文化財の写真

〔京都市東山区祇園町 八坂神社〕
 本扁額は,古来著名な絵馬で,画面中央の芝垣を間に挟んで白蔵主と猟師が配されており,狂言「釣狐」を主題とする。額縁や画面の銘記から,延享元年(1744)5月に洛西の井上保富の門弟によって八坂神社に奉納されたこと,画は京都の浮世絵師・西川祐信(にしかわすけのぶ)(1671~1750)の最晩年74歳の作であることがわかる。また,本図は,北の天満宮所蔵「釣狐図」絵馬の修復を機に,それをもとにして制作されたものである。祐信は,絵本や肉筆美人画で名を馳せ,以後の江戸の浮世絵界に大きな影響を及ぼした画家であり,本図は祐信肉筆画の基準作として貴重なものである。

 

板絵著色繋馬図(いたえちゃくしょくつなぎうまず) 1面(指定)

第20回京都市指定文化財の写真

〔京都市伏見区深草薮ノ内町 伏見稲荷大社〕
 本扁額は,色鮮やかな懸布で飾られた白馬一頭を画面中央に配したものである。画面の銘記から,御幸町通安土町が町内安全を願って,東羽倉家を通して伏見稲荷大社に奉納したもので,画は円山応挙に学んだ長澤盧雪(ながさわろせつ)(1754~1799)の作であることがわかる。画面には,寛政8年(1796)の年記のある七言絶句も記されており,その作者は皆川淇園門下の儒者・松本愚山(まつもとぐざん)(1755~1834)である。18世紀の京都で異彩を放った盧雪の最晩年の基準作として,また彼の交遊範囲を示す貴重な作例である。 

 

木造地蔵菩薩坐像 1躯(指定)

第20回京都市指定文化財の写真

〔京都市左京区下鴨松ノ木町・下川原町 京都国立博物館に寄託〕
 本像は,左京区下鴨松ノ木町内に所在する小堂内に安置されていた木造地蔵菩薩坐像であり,一本造としてはもっとも古式な作風を示している。また,檀色の施された代用材檀像による地蔵菩薩坐像の9世紀頃の古例と判断されるもので,日本彫刻史上貴重なものである。

有形民俗文化財

西国巡礼三十三度行者廻国修行用具(オセタ) 2基
附 称名寺所蔵西国巡礼三十三度行者関連記録 31点
(指定)
第20回京都市指定文化財の写真

〔京都市東山区大黒町 称名寺〕
 西国巡礼三十三番札所は,古く平安時代に遡る創始伝承をもつ古寺巡礼であるが,室町時代の15世紀中頃には現在の西国三十三所巡礼に通じる諸形態がほぼできあがった。
 江戸時代初期から昭和30年代前半まで,この西国三十三所を廻った民間の廻国修行者の存在が確認できる。行者は,サンドサン,オセタハン,セタブッサンなどと呼ばれ,各々オセタ(御背板,もしくは御背駄)と呼ばれる笈を背負って廻国をした。オセタはセタ元,あるいは本山などといわれる寺院が管理しており,京都では廻国修行を志す者は,こうした寺院に願い出てオセタを借り出し,西国三十三所を三十三回廻ることで満願となった。
 現時点で確認できている本山は6箇所で,京都では東山区の称名寺が,大仏組の本山として,かつては5基のオセタを有し,常時5人の廻組修行者を抱えていた。
 オセタは,木製の本体とその上に載せる行李とに分かれ,本体には熊野権現本地仏や西国三十三所の本尊を納めた厨子の他,仏具,位牌などを,行李には幡や打敷などの布製品や宿帳などを納めた。法会の際には階段状の祭壇となるような拵えである。
 行者は,廻国修行の際,巡礼道沿いに分布する信者のもとに立ち寄り,そこでオセタを開帳し法会を執り行った。各オセタには信者の住所を記した宿帳がついており,行者が変わる際には,後継の行者はオセタと共に檀那場も継承する慣行となっていた。
 称名寺に現存するオセタは2基のみとなったが,西国三十三度行者の活動および,西国巡礼に関する民俗を明らかにする資料として極めて貴重なものである。
 

史跡

法観寺境内(指定)
第20回京都市指定文化財の写真

〔京都市東山区八坂上町 法観寺〕
 「八坂の塔」の通称で親しまれている法観寺は,寺伝によれば聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重塔を建てて仏舎利を納めたことによると伝えている。
 治承3年(1179)に清水寺衆徒と祇園社の神人とが争いに及び,この時の類焼によって塔をはじめ多くの堂舎が焼失しているが,その後も二度火災に遭い,現在の五重塔は永享12年(1440)に再建された時のものである。
 境内ではこれまでに飛鳥時代の瓦も出土しており,また発掘調査では,現在の基檀と同じ位置で旧基檀の版築も確認されている。
 創建当初の法観寺の寺域については,現在推測する資料がないものの,その創建は飛鳥時代まで遡ること,現在の五重塔が創建当初の位置を踏襲していることなどは確実であり,平安京遷都以前における山背の古代寺院として貴重な史跡である。

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京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

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