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京都市指定・登録文化財-美術工芸(下京区)

ページ番号189556

2020年4月6日

京都市指定・登録文化財-美術工芸(下京区)

紙本著色京洛月次風俗図扇面流 6曲屏風(しほんちゃくしょくけいらくつきなみふうぞくずせんめんながし ろっきょくびょうぶ)

 波や芦,千鳥の群等を描いた背地画面に24面の扇面を添付する。23面の扇面には,1月から6月にかけての年中行事や京洛名所が描かれる。各扇面の朱文壷形「元信」印等によって,狩野元信工房による室町時代末期の制作と判断される。風俗画としても貴重。
紙本著色京洛月次風俗図扇面流 6曲屏風

桜下亭障壁画  円山応挙筆(おうかていしょうへきが まるやまおうきょひつ)

 本障壁画は,元来,東本願寺岐阜別院のもの。素地や金地に水墨で,稚松・竹雀・白梅などを描く。寛政3年(1791),応挙59歳の時の作で,減筆体による晩年の円熟した作風が窺える。
桜下亭障壁画  円山応挙筆

晟章殿小書院障壁画 呉春筆 (せいしょうでんこしょいんしょうへきが ごしゅんひつ)

 刈田から倉入れまでの四季の耕作の様子が,寛政9年(1797)頃に四条派の祖・呉春(1752~1811)によって描かれたもの。
晟章殿小書院障壁画 呉春筆

時慶卿記(ときよしきょうき)

 近世初期の公家西洞院時慶(1552~1639)の自筆日記で,時慶35歳の天正19年(1591)から没する半年前の寛永16年(1639)6月14日までの内のおよそ19年間分が現存している。歌会の記事が多く見られるのを始め,豊臣,徳川間の緊張関係が続く中での禁裏,公家の慌しい様子が記されているだけでなく,当時の庶民生活の一端までも活写している。

時慶卿記

角倉家文書(すみのくらけもんじょ)

 本文書は,角倉了以の子素庵の時代を中心とする朱印船貿易関係のもの。京の豪商の朱印船貿易及び徳川幕府の鎖国令によりその貿易が終焉を迎えた当時の状況が窺える。
角倉家文書

鶏鉾町文書(にわとりほこちょうもんじょ)

 祇園祭の鉾町の一つである鶏鉾町に伝わった文書。鶏鉾の構造,飾付けの様子や祇園祭を執行する際の様々な取決めを知るうえで貴重。また近世の山鉾町の組織や経済の様子等も伝える。
鶏鉾町文書

東塩小路村庄屋要助村方諸事日記(ひがししおこうじむらしょうやようすけむらかたしょじにっき)

 正行院に伝わる東塩小路村関係の文書群中の一つで,嘉永3年(1850)から慶応4年(1868)にかけてのもの。当時,東塩小路村の庄屋であった若山要助が記している。
東塩小路村庄屋要助村方諸事日記

善長寺町文書(ぜんちょうじちょうもんじょ)

 祇園祭山鉾の綾傘鉾を出す善長寺町の文書で江戸~明治時代のもの。中でも文化文政年間(1804~30)頃を中心とする町代改義一件についての文書が大半を占める。
善長寺町文書

長刀鉾町文書(なぎなたほこちょうもんじょ)

 祇園祭の鉾町の一つ,長刀鉾町の江戸時代~明治の文書。文化文政年間(1804~30)を中心とする町代改義一件についての文書が大半を占める。
長刀鉾町文書

祇園会保昌山前懸胴懸下絵(ぎおんえほうしょうやままえかけどうかけしたえ)

 祇園祭の山鉾のひとつである保昌山の前懸,胴懸のために円山応挙(1733~95)が描いた下絵(前懸分1枚,胴懸分2枚)。前懸,胴懸裏地の墨書から,安永2年(1773)に刺繍が完成したことがわかり,その下絵である本図も制作年代が推定できる。写生画で名を馳せた応挙らしく,写生をもとにした精緻な描写が認められる。また,丁寧に施された淡彩の色合いも美しく,下絵とは思えないほど完成度が高い。人物の背景が紅で彩られるのは,刺繍の下地に緋羅紗(ひらしゃ)を想定して下絵を考案したことを示している。 応挙は他にも月鉾の軒裏板絵を描いている天明4年(1784)が,本図はそれよりも早く,有名絵師による山鉾の装飾品としては最初期のものと位置づけられる。下絵ながら,応挙の力量が如何なく発揮された作品であり,京都の絵師と祇園祭の関係を知る上でも貴重である。

祇園会保昌山前懸胴懸下絵

木造聖観音菩薩立像 (しょうかんのうぼさつりゅうぞう)

 本像は本堂東脇の間に安置される日蓮宗勝光寺の客仏である。本像の背面には日通による「南無妙法蓮華経観世音菩薩」の名号,および「當山(とうざん)卅(さんじゅう)五(さんじゅうご)代日清(花押)/明治九年九月合併者也」の墨書がある。この合併というのは真如寺との合併を指す。真如寺は『山城名跡巡行志』(宝暦4年〈1754〉跋(ばつ))によれば,貞観4年(862)に藤原良縄(よしただ)(814~868)が文徳天皇の菩提を弔うため建立した天台寺院で,万治年中(1658~61)に法華宗の寺として再興したとされる。本像背面に名号を記した日通は,勝光寺に残る墓碑によれば,同寺中興開基で延宝7年(1679)に示寂(じじゃく)したことが知られる。真如寺の創建は貞観4年(『日本三代実録』巻6)で,本像は創建時の真如寺の旧像と想定される。本像は蓮肉(れんにく)も含めた頭体の主部を針葉樹材(カヤか)から彫成する一木造で,切れ長で比較的見開きの強い目,低く太い鼻梁,彫の深い口唇などの顔貌表現,頭部の比例が大きく全体として寸詰まりなプロポーションは9世紀前半の作例に通じる。その出来映えは,この時期の彫像の特色をよく伝える優れたものであり,伝来した真如寺の開創期の作とは同定し難いが,藤原良縄ゆかりの像である可能性があり,平安京が開かれて間もない時期の造像例として,その価値は極めて高いと言えよう。
木造聖観音菩薩立像

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