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新指定・登録文化財 第37回京都市文化財

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2021年4月16日

新指定・登録文化財 第37回京都市文化財

 京都市では,京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。

 平成31年2月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに6件を指定しました。(平成31年3月29日告示)

 これにより,京都市指定・登録文化財は全部で526件になりました。(平成31年4月1日現在)

 *〔  〕内は,文化財の所有者又は保持団体名です。

建造物

西行庵 主屋及び茶室(皆如庵(かいにょあん))

西行庵 主屋及び茶室(皆如庵(かいにょあん)) 2棟 (指定)

主屋 1棟

茶室(皆如庵) 1棟

 附 点茶卓 1脚

〔京都市東山区鷲尾町 非公表〕

 西行庵は明治19年(1886)に開設された円山公園内の東山区鷲尾町に所在し,円山音楽堂の南に位置する。平安末期の歌僧西行が一時庵を結んだと伝わる所で,明治期には荒廃していた。公園常設委員及び市参事会員は日出新聞で西行庵の借り手を募集し,宮田小文(みやたこぶん)に貸すことになった。宮田は越前出身で11歳で京都の紅問屋に奉公し,学問を好み和歌をよくしたと伝わる文化人であった。宮田は富岡鉄斎代筆で勧進文を記し,浄財を募った。賛成者には,内貴甚三郎や冷泉為紀(ためもと)などがいた。

 主屋は,現在の大宮開町付近にあった浄妙庵の建物を移築した。大工は平井竹次郎で,平井家は江戸時代から数奇屋大工として続いた家柄で,竹次郎は4代に当たる。土間席の床(ゆか)は瓦四半敷とし,点茶卓を据える。

 皆如庵は現在の平野宮北町付近の久我家にあった茶室を移築した。内部は道安囲(どうあんがこい)とする。床(とこ)は正面に円窓(まるまど)をあけ,背後に障子を建て,灯が円窓の障子に映る効果を考えており,「夜咄(よばなし)の席」ともよばれる。

 主屋は,玄関や待合の機能をもつ土間席や,空間の伸縮を可能にした四畳半に進歩的な工夫が認められ,土間席は立礼席の先駆とも見られる点において重要な遺構である。さらに久我家伝来の茶室を裏に移築し,主屋とあわせて草庵露地の一境を形成した遺構であり,また明治に市が行った円山公園の整備事業の一端が垣間見える遺構が現地に残っている点も貴重である。

頂法寺 本堂及び拝堂

頂法寺 本堂及び拝堂 2棟 (指定)

本堂 1棟

拝堂 1棟

 附 鐘楼 1棟

[京都市中京区六角通烏丸東入堂之前町 頂法寺]

 頂法寺は山号を紫雲山と号する天台宗系単立寺院である。本堂の平面を六角形とすることから「六角堂」とよばれている。

 平安中期以降,六角堂の本尊如意輪観音(にょいりんかんのん)が貴賤を問わず広く信仰を集め,応仁の乱後は,下京の自治の中心的役割を果たす惣堂(そうどう)の役割をもつようになった。

 六角堂の敷地は現在に至るまで動くことはなかったが,堂宇は幾度も焼亡したことが文献史料に記されており,元治元年(1864)の兵火による焼失に至るまで18回もの火災に遭い,その度に再建された。

 現在の建物は,元治の大火で焼失後,明治10年(1877)在来の基壇の上に前身堂の形状,寸法を概ね踏襲して再建されたもので,大きな改変がなく当初の状態が良く残される。

 六角形平面を持つ重層の本堂と単層入母屋造の拝堂からなる複合仏堂で,一連の基壇上に建つ。本堂は,上層が正六角形,下層が正面辺長を広げた不等辺六角形で,正面の開口部を広くし多くの参詣に応えた形式とする。拝堂も参詣しやすさを考慮し,柱間を吹放し床を張らず土間とする。兎毛通(うのけどおし)や虹梁(こうりょう)の上に龍の彫刻を飾るなど,装飾的な要素が強い外観は霊場建築の特徴をよく示す。

 旧態を引き継ぎつつ,参詣者の礼拝のしやすさを考慮する形式とした明治の六角堂は,霊場寺院の特色をよく伝える建築として貴重である。

 幕末の大火で市中が灰燼に帰すという状況のもと,下京の自治の中心であった六角堂は,明治初期に再建された本格的な仏堂建築として歴史上,貴重な遺構である。

 また,六角通南側の頂法寺飛地(旧境内地)に位置する鐘楼の鐘は,法華一揆の際に打ち鳴らされた集会の鐘として,近世には時の鐘として,下京の人々にとって重要なものであった。六角堂が下京の惣堂であったことを示す貴重な遺構であることから,本堂と併せて附指定し保存を図りたい。

美術工芸品(絵画)

絹本著色春屋宗永像

絹本著色春屋宗永像 伝土佐光茂筆 天文十五年春林宗俶の賛がある 1幅 (指定)

〔大慈院〕

 本図は大徳寺の塔頭大慈院に伝来する尼僧の肖像画である。天文15年(1546)の年紀がある大徳寺第98世春林宗俶(そうしゅく)(1488-1564)の賛によれば,像主は宗運庵の春屋宗永(しゅんおくそうえい)(生没年未詳)で,春屋が大弘禅師・実伝宗真(1434-1507)の教えを受け,大鏡禅師・悦溪宗忢(えっけいそうご)(1462-1525)から法号を授けられたこと,春屋の孫の宗祐蔵主(ぞうす)が描かせた寿像であることがわかる。

 画面右下には土佐光起(1617-1691)による「土佐刑部(ぎょうぶ)大輔(たいふ)光茂(みつもち)真筆」という紙中極(しちゅうぎわめ)があり,作品の優れた出来映えから,極のとおり土佐光茂(生没年未詳)筆と推測されている。土佐光茂は室町時代後期のやまと絵系の絵師で,本図の精細な顔貌表現や沓台に見る文様の細やかさ,鮮やかな緑青と群青の配色などが光茂の作風に通ずると評価されている。

 ただし,光茂の肖像画の基準作である足利義晴像の大小2種の紙形(「土佐派絵画資料」京都市立芸術大学資料館蔵)は下絵であり,彩色には後世の加筆が認められる。他に光茂の基準作となる絹本の肖像画は見出されておらず,作者の確定は困難である。しかし,光茂の次世代の土佐光吉(1539-1613)の肖像画とされる「絹本著色石田正継像」(壽聖院蔵,重要文化財)と比較すると,「正継像」のより明快な筆線で平明さが際立つ作風と本図の繊細な画風とは距離が感じられ,むしろ父の土佐光信(1434?-1525?)筆「絹本著色後円融院像」(雲龍院蔵,重要文化財)の短く細い線を慎重に重ねて形態をとらえる緻密な画風に近い。すなわち,本図は光茂筆とする確証こそ得られないものの,光信の肖像画の描法を継承するものであり,賛の年紀によって制作時期も判明する室町時代後期の肖像画として高く評価できる。

美術工芸品(彫刻)

木造聖徳太子立像

木造聖徳太子立像 1躯 (指定)

〔権現寺〕

 本像は,下京区朱雀裏畑町に所在する浄土宗寺院,権現寺に伝わる木造聖徳太子立像である。現在は本堂に安置されるが,もとは境内に構える権現堂(ごんげんどう)に祀られていた。

 本像は身体を裸形に造り,衣服を纏わせた裸形(らぎょう)着装像(ちゃくそうぞう)で,玉眼(ぎょくがん)を嵌入し,頭部に黒染めの絹糸を貼り,角髪(みずら)を結う。左手は柄香炉(えこうろ)を持ち,右手は笏(しゃく)を持っていたと思われる。これは聖徳太子が16歳の時,父・用明天皇の病気平癒を祈願した姿であるとされ,いわゆる十六歳・孝養像(きょうようぞう)として,二歳・南無仏太子像(なむぶつたいしぞう),三十五歳・勝鬘経講讃像(しょうまんぎょうこうさんぞう)などとともに知られる,聖徳太子像の一形式である。聖徳太子の彫像は平安時代から見られるが,特に孝養像は13世紀半ば以降に,本像のように柄香炉に加えて笏などを持つ像は, 14世紀前半以降に多く見られるようになる。

 一方,裸形着装像は平安時代半ば頃に出現し,鎌倉時代に盛んにつくられる。現在のところ53例が報告されており,このうち聖徳太子立像は11例を数える。腹部や臀部(でんぶ)の肉付きをあらわすにとどまる本像の身体表現は,鎌倉時代制作の裸形着装像と共通し,また陰部に陰馬蔵相(おんめぞうそう)をあらわす点,左足親指を上げる点などは,生身信仰(しょうじんしんこう)に通ずる表現として注目される。

 以上のことからして,本像の制作は鎌倉時代末と考えられる。

 本像は,構造に不明な部分が残るものの,聖徳太子孝養像における全身裸形の着装像として,彫刻史上数少ない遺品であり,かつ多様化する聖徳太子像の一作例として貴重である。

美術工芸品(考古資料)

御土居跡(西九条周辺)出土品

御土居跡(西九条周辺)出土品 477点 (指定)

〔京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町 京都市〕

 本件は,京都市南区西九条北ノ内町,鳥居口町,春日町地内において発掘された御土居跡より出土した木製品および金属製品である。

 御土居は,天正19年(1591)に豊臣秀吉が築いた南北約8.5km,東西約3.5kmを囲む大規模な土塁及び堀である。発掘調査では,計5箇所の調査区において堀の跡が検出され,その中から近世初頭(16世紀末~17世紀後半)の製品が多量に出土した。その内容は,工具,祭祀具,木簡,紡織具,武具,服飾具,食事具・容器,遊戯具,雑具,部材等,多岐にわたり,一部に未成品を含む。

 このうち特に注目される資料に人形の頭部と木簡がある。人形は立体的な作りをもち,冠や烏帽子を表現したものや,髪を埋め込む細工を施したものがある。これらは祭祀具というより,芸能具や玩具である文楽人形の原初形態を思わせる。未成品を伴うこと,類似した形態のものが複数存在すること,漆塗布用のヘラがともに出土していることから,近隣に人形を製作する工人が存在したと考えられる。

 一方,木簡には巡礼札や付札があり,年号のほか「京極丹後守(宮津藩二代藩主京極高広)」等,著名人の名も見える。また表面に日本語,裏面にアルファベットを記した付札には「せるそ様」(宣教師セルソ=コンファローネ)の名が見えることから,周辺にヨーロッパ人や宣教師の集住があったことが推測される。

 史料によると,中世後半の調査地周辺には東寺の掃除役や雑役を担う散所人,手工業者,商人等が集住する巷所(従来の道路を開発して居住地や耕作地とされた範囲)が存在していたとされる。その復元は,これまで文献史料や民俗芸能の分野からの研究が主体であり,それを裏付ける物的資料(考古学的情報)を欠いていた。御土居跡出土品はこれを補うものであり,当該地の歴史解明に加えて,関連分野の研究進展にも寄与する有用な資料群であるといえる。

記念物(名勝)

霊鑑寺の庭

霊鑑寺の庭 (指定)

 霊鑑寺は,後水尾院の第12皇女・月江宗澄(げっこうそうちょう)(1639-1678)を開山とする臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院である。正保元年(1644<1645>)に後水尾院が東山三十六峰の一つ如意ヶ岳の西麓に土地を得て創建した。

 寛政9年(1797)5月付けで鹿ケ谷村の庄屋や年寄らが「谷御殿御内 田原摂津守殿」宛に提出した「鹿ケ谷村用水絵図」(霊鑑寺蔵)には,本堂と書院南側の庭の様子が描かれている。昭和11年(1936)刊行の『日本庭園史図鑑』に掲載された書院と本堂南側の実測図・写真によると,昭和初期から大きな変化はみられない。

 玄関と庫裏の東側に位置する霊鑑寺の庭は,奥殿東庭,東上段の庭,本堂南庭,書院南庭,書院東庭の5箇所から構成される。

 霊鑑寺の庭の地割は,如意ヶ岳山麓の地形を巧みに用い,土留めのための石組や石積,景石を緻密に配する。高低差の処理に多様な見せ場を与えているのが特徴的である。石燈籠などの工作物の構成は簡潔で洗練されている。

 主景は,接客に用いられる書院に伴う枯滝石組と枯池である。庭内は園路と石階段で周回することができ,東上段の庭からは書院や本堂を俯瞰できる。

 江戸中期の記録が残り,園芸品種の原木に準ずる希少なツバキが保存されている尼門跡寺院の庭として貴重である。

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京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

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