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新指定・登録文化財 第35回京都市文化財

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2021年4月16日

新指定・登録文化財 第35回京都市文化財

 京都市では,京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。

 平成29年2月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに6件を指定し,2件を追加指定しました。(平成29年3月31日告示)

 これにより,京都市指定・登録文化財は全部で510件になりました。(平成29年4月1日現在)

 *〔  〕内は,文化財の所有者又は保持団体名です。

建造物

堀川第一橋(中立売橋)

堀川第一橋(中立売橋) 1基(指定)

〔京都市中京区上本能寺町 京都市〕

 堀川第一橋(ほりかわだいいちきょう)は,堀川の中立売通に架かる道路橋(どうろきょう)で,地元では広く中立売橋(なかたちうりばし)と呼ばれている。近世には幕府が設置した擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)付きの木橋であった。幕府直轄で維持管理を行う公儀橋(こうぎばし)であり,禁裏と二条城を結ぶ道筋に架かる重要な橋であった。

 明治時代になると公儀橋は京都府へ引き継がれ,明治6年(1873),京都府により中立売橋は永久に壊れることのないように新たに石橋として架け替えられ,堀川に架設された最初の「永久橋(えいきゅうばし)」として「堀川第一橋」と名付けられた。大正2年(1913)京都市に移管され,度々修繕は行われているものの,大きな改変はされておらず,架設当初の姿が良く残されている。

 堀川第一橋の主要構造は全国的にも数少ない石造円形アーチである。現在は,親水空間として整備されたため,円形アーチの下部は地中に埋まり全景を見ることできないが,戦前までの豊富な水量の堀川では円形のアーチが見えていたと思われる。

 明治以降,日本に本格的な橋梁(きょうりょう)の構造設計理論が導入されるが,明治初期の石橋にはまだ導入されず,石工(いしく)の経験により培われた技術を用いて架設された。明治40年(1907)前後から,近代的工法による鋼橋(こうきょう)やコンクリート橋(きょう)が架けられ,公の橋としての石橋は造られなくなった。

 堀川第一橋は,京都府が,市内の公儀橋を永久橋として架け替えた石橋の現存最古の遺構で,かつ,改変が少なく架設当初の姿を保持する貴重な橋である。また,主要構造は,石工の伝統技術により架設された全国的にも数少ない真円の石造アーチ橋(きょう)である。明治初期に京都府が公共の道路橋として架設した堀川第一橋は,近代的工法による「永久橋」へと移行する前段階の「永久橋」の遺構として近代橋梁史上,価値が高い。

櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅)


櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅) 3棟(指定)

 和館 1棟

   附 幣串 1本

     大正二年二月三日吉祥の記がある 1本

 洋館 1棟

   附 幣串 1本

     大正二年十二月吉祥の記がある 1本

 画室 1棟

   附 幣串 2本

     大正二年一月三日吉祥の記がある    1本

     大正六年三月十六日吉祥の記がある 1本

 附 門 1棟

〔京都市北区等持院東町 公益財団法人櫻谷文庫〕

 旧木島櫻谷(このしまおうこく)家住宅は,衣笠山麓,北区等持院東町に所在する。日本画家である木島櫻谷(1877-1938)の住宅で,大正2年に建てられた。櫻谷が居を構えた衣笠は,日本画家が多く住んだ地域で,絵描き村とも称された。

 和館(わかん)は,木造2階建,入母屋造(いりもやづくり)で,北東に平屋部(ひらやぶ),南東に玄関がつく。華奢な部材を用いた繊細なつくりで,2階は窓が多く眺望を意識して建てられている。天井を高くし,開放的で明るい空間をつくり,近代の和風建築らしさが現れている。

 洋館は,木骨煉瓦造(もっこつれんがつくり)2階建,寄棟造(よせむねづくり)である。応接室を上がる廻り階段に曲線を用いて,アールヌーヴォーを思わせるような造作(ぞうさく)をしている。応接室は,洋室であるものの,床,天井,腰板(こしいた)など意匠上重要なところに和風の要素を入れ,プロポーションを変えるなど工夫に富み,和洋が混在した空間となっている。

 画室は木造平屋建(もくぞうひらやだて),入母屋造(いりもやづくり)である。64畳敷の大空間をつくる。光が入りやすい面に積極的に窓をつくり,広く明るい空間を作っている。

 櫻谷文庫は,住居である和館,応接や寝室,収蔵の機能をもつ洋館,制作の場である画室が同敷地内に建ち,櫻谷が居住した頃の状態をよく残している。櫻谷の好みが建物に反映されていることから,絵描き村衣笠に残された近代日本画家の美意識を示す建物として価値が高い。また,大正期の大規模住宅として意匠的にも優れた重要な遺構である。あわせて,建物の構成要素としての門,建築年代や改築年代を示す棟札も重要なものである。
大原野神社 摂社若宮社


大原野神社 摂社若宮社 1棟(追加指定)

 附 棟札 5枚

    元禄十四年辛巳(※)年九月廿六日の記がある 1枚

    慶應元年乙丑(※)年十一月四日の記がある 1枚

    大正十年七月二十五日の記がある 1枚

    昭和三十二年三月吉日の記がある 1枚

    昭和六十二年十一月吉日の記がある 1枚

   木札 1枚

    大正拾年七月廿六成功の記がある 1枚

〔京都市西京区大原野南春日町 大原野神社〕

※については以下のように表記しても結構です。

 元禄十四年辛巳 → 元禄十四年辛巳

 慶應元年乙丑  → 慶應元年乙丑

 大原野神社は,延暦3年(784)の長岡遷都(せんと)の際,藤原氏の氏神として奈良の春日大社を勧請(かんじょう)したのが始まりとされる。本殿4棟,中門,東西廊(とうざいろう)(全て江戸時代後期)は,市有形文化財として平成15年4月1日に指定された。摂社(せっしゃ)の若宮社(わかみやしゃ)は平成25年の修理で旧材が良好に残ることが分かり,元禄14年(1701)まで遡ることが判明した。境内で最古のものであったので今回追加で指定するものである。

 若宮社は本殿の一郭から離れ,鯉沢(こいさわ)の池の東側に西面して立つ。天押雲根命(あまのおしくもねのみこと)を祀る。元禄14年,慶応元年(1865),大正10年(1921),昭和32年(1957),昭和62年の棟札(むなふだ)と,大正10年の木札(きふだ)が残る。様式から,元禄14年がこの建物の建立年代に該当すると推定される。

 建物は一間社(いっけんしゃ),春日造(かすがづくり),桧皮葺(ひわだぶき)である。本殿とよく似るが,一回り小さい社殿である。全体に朱や黄の彩色(さいしき)を施す。各部材の面とりは本殿よりやや大きく,建立が本殿より遡ることを示す。

 柱などの主要部材はよく残り,全体として保存状況は良好である。若宮社は境内で最も古く,重要な建物である。また棟札と木札は修理履歴を示す上で重要である。

美術工芸品(絵画)

紙本金地著色唐獅子図

紙本金地著色唐獅子図

(狩野山楽筆/仏壇羽目板壁貼付) 3面(指定)

〔京都市東山区大和大路通七条下る三十三間堂廻町 養源院〕

 本図は,養源院の客殿障壁画のうち,狩野山楽(1559-1635)筆とされる唐獅子図である。養源院は,浅井長政の菩提寺として,長政の長女であり,豊臣秀吉側室の淀殿によって文禄3年(1594)に創建された。当初の建物は元和5年(1619)に焼失,長政の三女で,徳川秀忠正室の江によって,同7年に再建された。

 狩野山楽は,浅井家家臣の木村永光の子として生まれながら,絵を好み,狩野永徳を師として研鑽を積み,狩野姓を許されるまでに大成した。京狩野の祖としても知られる。

 本図は,室中奥の内陣にある仏壇の下部の羽目板3面に貼りつけられた紙に描かれている。各面に描かれる2頭の唐獅子には,表情と姿態で変化がつけられており,描線は唐獅子の動きを的確にとらえている。その姿態や動勢は,規模は異なるが,狩野永徳筆「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を髣髴とさせる。小品ながら,本図は桃山から江戸初期にかけての狩野派の唐獅子図として優れた出来映えを示す。

 本図は養源院再建の元和7年頃の制作と考えられ,山楽晩年期の作品となる。山楽は,慶長20年(1615)の大坂城落城後,豊臣恩顧の絵師として残党狩りの対象となったが,徳川秀忠により助命された。山楽はその後,秀忠が造営した社寺の絵画制作に携わったことが知られている。江による養源院再建の障壁画制作に山楽が起用された理由として,従来,浅井家旧臣の家に生まれたという出自が考えられてきたが,近年,秀忠の関与も示唆されている。

 以上,本図は制作年代の推定できる山楽の基準的作例であることに加えて,山楽晩年期の画業を支えていたと思われる有力者との関係を考える上でも重要な作品と言える。

美術工芸品(工芸品)

木造阿弥陀如来立像

木造阿弥陀如来立像 1躯(指定)

〔京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町 上徳寺〕

 塩竃山(えんそうざん)上徳寺は,「世継(よつぎ)地蔵」で知られる浄土宗の寺院で,徳川家康が側室の阿茶局(あちゃのつぼね)を開基として慶長8年(1603)に建立した。

 本像は本尊として,江戸時代の補作と思われる木造観音菩薩立像(もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう)・木造勢至菩薩立像(もくぞうせいしぼさつりゅうぞう)の両脇侍とともに安置される。

 『塩竈山上徳寺本尊縁起』によると,本像は家康が鞭崎(むちさき)八幡宮(滋賀県草津市矢橋)から招来したものであるという。

 近年,エックス線CTスキャン調査により,像内に籠められた経巻状の納入品が確認された。

 本像は,通例の阿弥陀如来立像とは異なるいくつかの特徴を具える。すなわち技法においては,螺髪(らほつ)を1粒ずつ金属製の釘で留める点,唇に水晶を貼る点,両足を別材でつくり像底に挿し込む点,像容においては,逆手(さかて)の印相を示す点,衣を通肩(つうけん)につける点である。

 最も特徴的な,唇に水晶を貼る,玉唇(ぎょくしん)とも呼ばれる表現は,東京国立博物館・木造菩薩立像(重文),京都・仏性寺(ぶっしょうじ)木造阿弥陀如来立像の2作例が知られるのみである。

 螺髪の表現や両足の仕様も含め,これらは平安時代末期から鎌倉時代に見られるようになる,生身(しょうじん)信仰に基づく表現と考えられる。

 逆手の印相については,早くは兵庫・浄土寺木造阿弥陀如来立像(国宝)などに見られ,中国・宋代美術受容の一形態として位置づけられている。

 通肩の着衣(ちゃくえ)形式は,一連の善光寺式阿弥陀像を思わせるが,衣の表現は,京都・知恩院「絹本著色阿弥陀浄土図」(重文)などの宋代仏画に見る表現に通じ,その影響がうかがわれる。

 このように本像は,玉唇の生身仏像であるとともに,さまざまな点で宋代美術の受容がみられる,類例の少ない阿弥陀如来像であり,制作年代も13世紀前半に遡りうる貴重な像である。

美術工芸品(考古資料)

鳥羽離宮金剛心院跡出土品

鳥羽離宮金剛心院跡出土品 324点(指定)

〔京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町 京都市〕

 本件は,昭和52年から平成3年にかけて18回にわたり実施された,鳥羽離宮金剛心院跡における発掘調査で出土した考古資料である。土器や土製品をはじめとして,多種多様な資料が含まれる点が特徴で,院政期における御堂や仏教美術の様相を鮮明に示す。

 金剛心院は,久寿元年(1154)に鳥羽上皇によって造営された御堂であり,鳥羽離宮跡の中で最も解明が進んでいる地点である。これまでの調査で園池跡や建物跡などを確認している。本資料の多くは,池とそれを取り囲むように配された建物跡周辺などから出土した。

 本指定のうちの164点が瓦である。中でも軒瓦は,瓦当文様や製作技法の特徴から,山城・播磨・讃岐産のものが確認できる。特に, 播磨産軒瓦の約90%を占める複弁六葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦は,それぞれ6種類と10種類の笵が確認でき,これと同文瓦が兵庫県林崎三本松窯・神出(かんで)窯・魚橋窯で出土している。このことから,金剛心院造営に際して点在する東播磨の造瓦所が同一規格・同一文様の軒瓦を計画的に製作したと捉えられる。更に,西築地で使用された播磨・讃岐産の巴文軒丸瓦・連巴文軒平瓦は,離れた生産地にも同文異笵の瓦を発注している事例として注目される。

 瓦以外にも,漆箔仕上げの木製品,玉類,金属製品,土塔,卒塔婆などの仏教関連遺物が出土している。金属製品としては,方形金具や瓔珞,風招,鈴などがあるが,その中でも須弥壇の角に用いられた飾金具と考えられる鴛鴦(おしどり)文金具は注目される。銅製で表面に鍍金が施され,中央には蹴彫りで向かい合った2羽の鴛鴦が表現されている。

 本件は,院政期の仏教美術の一端を示すのみならず,離宮造営に伴う瓦の供給を考える上で欠かせない。特に金剛心院が,鳥羽上皇が晩年に総力をあげて造営した鳥羽離宮最大の御堂であることを踏まえるならば,院政期の御堂の実態を如実に示す貴重な資料といえる。

美術工芸品(古文書)

実相院文書

実相院文書 1通(追加指定)

〔京都市左京区岩倉上蔵町 実相院〕

 実相院に伝来する中世文書群3巻4冊181通は,平成27年3月31日付で京都市有形文化財として指定されているが,本文書はこれらとは別置されており,指定後に見出されたものである。

 本文書は,文保2年(1318)11月3日に順助が記した文書を,応永33年(1426)2月9日に増詮が書写した旨の奥書を持つ。文保2年に本文書の原本を記した順助法親王(1279-1322)は亀山天皇の皇子で,聖護院18代門主(もんす)であり,園城寺68世長吏を務めた。

 本文書は,実相院門主の増基(1282-1352)が,順助・増基の師である覚助法親王の元を訪れ,宗円から伝授された「密印(みっちん)」(密教の印相)の再伝授を依頼したが,覚助がこれを断った顛末を記している。本文書の後半には,密印が静基以来,増忠,宗円,増基と実相院において伝授されてきた経緯が記される。静基は実相院の開山であり,増忠(1233-98),増基はそれぞれ2代,4代門主である。

 奥書には,応永33年,増詮が聖護院門主道意に密印を伝受された折に,本文書の原本を見,その夜の内に書写したとある。増詮(生没年不詳,後に義運と改名)は,足利満詮の実子で義満の養子である。実相院に入り,門主となり,准三宮(じゅさんぐう)まで昇った。

 本文書が写されたのは室町時代であるが,内容は鎌倉時代の伝法に係わる記録である。既指定の実相院文書は,室町時代に入ってからの知行関係の文書が多数を占めており,鎌倉時代まで遡る実相院及び寺門派の相承関係を示す本文書は,既指定の文書群を補完するものとして,極めて貴重である。

記念物(名勝)

伏見稲荷大社松の下屋

伏見稲荷大社松の下屋

30番の4の一部,35番の1,35番の2のうち6,340.7㎡(指定)

〔京都市伏見区深草藪之内町 伏見稲荷大社〕

 伏見稲荷大社・本殿の南西側に所在する松の下屋は,旧社家・松本家の宅地跡に所在する茶所である。

 『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』によれば,松本家の宅地は明治維新後に分割され,明治17年(1884)にその一部が当時主典を務めていた竹良豊に譲渡された。その後,大正6年(1917)には別個人へと所有権移転し,料亭の開設を目指して和風建物が新造された。その計画が頓挫したことにより,所有権は伏見稲荷大社へと移転した。大正8年,社務所の書院の庭にあった茶室・瑞芳軒の移築を契機に,一体の敷地として整備された。

 松の下屋は7つの庭から構成される。

 「表玄関の庭」は,松の下屋の表門と前述の和風建物の表玄関を繋ぐものである。「御茶屋の北・東庭」は,寛永18年(1641)に後水尾院より下賜されたという由緒のある建物・御茶屋(重要文化財)周りの導線を兼ねる。

 「築山・露地」は,茶室・瑞芳軒と腰掛待合,蹲踞手水鉢などを擁する。「社務所第一別館の西庭」は和風建物の勝手口に伴う玄関庭であり,「中庭」は和風建物の座敷棟と土蔵に囲まれた方形の一画である。「園池・流れ」には東北から西南にかけて流れが穿たれ,その北端には園池が設けられている。「土蔵廻りの庭」は,第一別館の東南角と「築山・露地」とを園路で繋いでいる。

 伏見稲荷大社松の下屋は,明治期以降の伏見稲荷大社とその旧社家町の歴史,近代の庭の歴史を辿るうえで重要な意味を持つ。

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お問い合わせ先

京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

電話:075-222-3130

ファックス:075-213-3366

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