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京都市指定・登録文化財-名勝(東山区)

ページ番号189630

2020年4月6日

京都市指定・登録文化財-名勝(東山区)

養源院庭園(ようげんいんていえん)

 養源院は文禄3年(1594),淀君が亡父浅井長政を弔うために創建した寺である。元和5年に焼失し,同7年淀君の妹徳川秀忠夫人により再興された。江戸時代の養源院の様子は,『都林泉名所図会』の図に描かれ,それは,書院南の縁から庭園側を望んだ様子と思われる。図には,東西方向に伸びる雨落溝や,中央には沓脱石,書院の西端には縁先手水鉢が描かれているが,書院は明治に撤去されたため,それらは失われた。とはいえ,『都林泉名所図会』に描かれる姿をよく伝え,正面の枯滝石組みを中心に,西側の石橋,護岸石組みなど,堅実な当時の趣を残す貴重な庭園である。
養源院庭園

即宗院庭園(そくしゅういんていえん)

 即宗院は東福寺の塔頭で,元中4年(=嘉永元年,1387)に島津家の菩提寺として,島津氏久により創建された。寺号は彼の法名「齢岳立久即宗院」に由来する。この地は関白藤原兼実(1149-1207)が場晩年に営んだ山荘月輪殿の跡といわれる。『都林泉名所図会』には,この庭園の姿が収められている。明治の初期頃,荒廃の憂き目を見ていたが,近年なり現況実測・発掘調査が行われ,現在の姿となった。造営当時の姿を残す名園の一つとして貴重である。
即宗院庭園

知恩院方丈庭園(ちおんいんほうじょうていえん )

 知恩院は,法然上人が草庵を結んだ地に,弟子源智が大谷寺を創建したのが始まりである。庭園は,寛永10年(1633)からの伽藍再建と並行して築かれたものと考えられ,また,池泉には,華頂山山麓の湧水が利用されている。構成としては,大方丈・小方丈の建物に面し,それに応じて南庭と北庭とに分けられる。南庭は,紀州の青石が用いられるなど,庭の中心となる景に名石が使われているのも,この庭園の特徴である。優れた景をもつだけではなく,江戸時代初期の庭園の特徴を良く残している貴重な庭園である。
知恩院方丈庭園

清水家十牛庵庭園(しみずけじゅうぎゅうあんていえん)

 十牛庵は,大阪の上人であった清水吉次郎が建てたもので,庭園の名は,前の別荘の名が取られた。庭園の造営は小川治兵衛が手がけ,昭和3年(1928)に完成した。構成は,表門から玄関へのアプローチ,主庭,中庭の三つの部分に分けられる。座席に対応する主庭は,巨大な伽藍石と燈篭が主景をなしており,枯流れや蹲踞などが添えられ,落ち着いた雰囲気を醸し出している。植治の作風を今に残しているだけでなく,造営当時の資料を残している貴重な庭園である。
清水家十牛庵庭園

並河家庭園(なみかわけていえん)

 並河家庭園は,七宝作家で明治29年に帝室技芸員となった並河靖之(1845-1927)が,住宅兼工場に付して造営したものである。7代目小川治兵衛(植治)が手がけたとされ,明治27年(1893)に竣工した。庭園は,表玄関の「通り庭」と敷地の北東角にある「坪庭」,そして園池を中心として座敷前に広がる「主庭」に大別できる。これらは一体のものとして,明治期の住宅における庭園の有り様を今に伝えている。庭園内は色とりどりの石が配されており,さらに石燈篭や手水鉢,井筒など多くの石造品が景に彩りを与えている。植治が後の作風を築き上げるうえで重要な時期に造られたものであり,並河靖之の芸術観をも受け入れた密度の濃い庭園として貴重なものである。

並河家庭園

都ホテル葵殿庭園及び佳水園庭園(みやこほてるあおいでんていえんおよびかすいえんていえん)

 都ホテルは,華頂山を背に京都市街を一望のもとにする高台に位置する。葵殿庭園は,7代目小川治兵衛(植治)の最晩年,技量が最も円熟していた頃に築かれており,佳水園庭園はその息子,小川白楊の手がけたものである。

葵殿庭園は,モミジやアセビの群植とシダ類に覆われた急斜面地を骨格としており,その斜面を縫うように流れと沢飛びが築かれている。佳水園庭園はもともと,大正15年に,第23代内閣総理大臣清浦奎吾の喜寿を記念して建てられた喜寿庵の前庭である。庭園の骨格には,露出したチャートの岩盤をほぼそのまま利用しており,水流が岩のしわを伝って落ちている。双方の庭園は,巧みに地形を利用した庭園として貴重である。
都ホテル葵殿庭園及び佳水園庭園

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