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新指定・登録文化財 第36回京都市文化財

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2019年7月17日

新指定・登録文化財 第36回京都市文化財

 京都市では,京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。

 平成30年2月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに8件を指定し,2件を登録しました。(平成30年3月30日告示)

 これにより,京都市指定・登録文化財は全部で520件になりました。(平成30年4月1日現在)

 *〔  〕内は,文化財の所有者又は保持団体名です。

建造物


伏見稲荷大社松の下屋及び茶室(瑞芳軒)2棟 (指定)
松の下屋 1棟
茶室(瑞芳軒)1棟
 附 門 1棟
   供待 1棟
〔京都市伏見区深草藪之内町 伏見稲荷大社〕

 松の下屋は,伏見稲荷大社本殿の南に位置する。敷地北西に門を開き,東方に江戸時代前期の御茶屋(重要文化財),南方に松の下屋を配置する。敷地は,東側斜面を広大な庭とし,茶室(瑞芳軒)と供待を配す。敷地は京都市の指定名勝となっている。

 松の下屋と御茶屋が建つ土地は,近世までは社家松本家の敷地であったが,明治維新後に民間所有となる。民間で最後の所有者であった福田勝子は,大正6年(1917)7月に当敷地を購入,料亭を営むために翌月上棟式を行い,現在の松の下屋を建てた。しかし,諸事情により料亭経営が断念され,大正15年(1926),稲荷神社(現伏見稲荷大社)が現松の下屋と御茶屋を購入した。松の下屋は,御茶屋を意識しながら,その雰囲気を踏襲しつつも,近代の特徴をしっかりと表現している。料亭として使用されることがなかったため傷みもなく,建築当初に近い状態で保存されてきた。また,御茶屋を含めて人をもてなす建物として利用することを想定された遺構である。大正期の近代和風建築として,上質な材を用い,意匠的にも技術的にも優れた価値の高い遺構である。

 茶室(瑞芳軒)は,元は大正8年(1919)に伏見稲荷大社本殿の北側に位置する社務所の庭内に建てられ,昭和12年(1937)に現在地へ移築された。近代に建てられた京都らしい上質な茶室として評価できる。あわせて,門と供待は,これらの施設と一体的に構成される建物として重要である。


伏見街道第三橋(三之橋) 1基 (登録)
〔京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町 京都市〕

 伏見街道第三橋は,京と伏見を繋ぐ伏見街道筋にあり,三ノ橋川に架かる。近世まで,伏見街道は東福寺領内を通り,それにかかる三之橋は高欄のない土橋であった。幕府により管理される公儀橋(こうぎばし)であったが,実際の維持管理は寺費によることが多かった。

 明治2年(1869)三之橋は京都府の所管となり,明治6年(1873)に実施された伏見街道の整備事業に伴い橋も官費で石橋に架け替えられた。その際「伏見街道第三橋」と名称も変更されたが,地元では現在も「三之橋」と呼ばれている。

 伏見街道の交通量の増加に応じて伏見街道三之橋も拡幅されたが,当初の擬宝珠(ぎぼし)付高欄が残る。また,下部の主要構造も架設当初の姿が良く残っている。主要構造は,馬蹄形の石造アーチで,構造材には花崗石を用いる。

 明治初期,京都府は市内の道路整備とともに,橋の架け替え事業を実施し,石造アーチ橋を架設した。この時期の橋には,鉄筋コンクリート等の近代の工法はまだ導入されておらず,伝統的な土木技術を用いて架設されたものである。明治初期に架設されたこれらの石橋は近代的工法による橋へ移行する前段階の「永久橋(えいきゅう)ばし)」の一形式であるといえる。

 伏見街道第三橋は,拡幅の際,上部が大きく改変されたものの,京都府が市内の公儀橋を「永久橋」として石橋に架け替えた現存最古の遺構の一つとして貴重である。また,近代的工法によって架設される橋へと移行する前段階の「永久橋」の遺構として近代橋梁史上,価値が高い。

伏見街道第四橋(直違橋) 1基 (登録)
〔京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町 京都市〕

 伏見街道第四橋は,京と伏見をつなぐ伏見街道と七瀬川が斜めに交差する地点に架かる橋で,近世までは直違橋(すじかいばし)と称し,今でも地元ではこの名で呼ばれる。元禄11年(1698)に幕府が架設し維持管理した公儀橋(こうぎばし)で,高欄のない土橋であった。

 明治維新後,京都府の所管となり,明治6年(1873)直違橋は,伏見街道の整備事業に伴い堅牢な石橋に架け替えられ,橋の名称も「伏見街道第四橋」と改められた。

 伏見街道第四橋の主要構造は全国的にも希少な石造円形アーチで,架設当初の状態が良く残る。橋の上部は,昭和9年の道路拡幅に伴いコンクリートの橋に架け換えられたが,当初の親柱4本は再利用された。架設当初の高欄は,伏見街道第三橋と同じ擬宝珠(ぎぼし)付高欄であった。

明治初期に実施された京都府のインフラ整備事業では,将来,橋を架け替える必要がないよう「耐久構造」が要求された。橋梁の構造設計理論が導入される以前に,京都府が公共の道路橋として架設した石造アーチ橋は,石工の経験による伝統技術で架設された明治初期の京都における「永久橋(えいきゅう)ばし)」の一形式であるといえる。

 伏見街道第四橋は,京都府が市内の公儀橋を「永久橋」として石橋に架け替えた現存最古の遺構の一つであり,かつ,近代橋梁史においても,重要な遺構である。また,橋の上部工は改変されているものの,主要構造は全国的にも数少ない石造円形アーチであり,保存を図るべきである。

美術工芸品(絵画)


紙本著色十念寺縁起 土佐光茂筆 2巻 (指定)
 附 題簽 4枚
〔十念寺〕

 本作は,十念寺の縁起を説いた絵巻で,上下2巻からなる。十念寺は後亀山天皇の皇子,真阿上人を開山とし,真阿に帰依した足利義教が,一条小川にあった誓願寺中に一宇を建立したのが始まりとされる。

 本作は,巻上6段,巻下5段からなり,各段に詞書と絵がそろっている。ただし,詞書は当初のものではなく,元禄15年(1702)に筆写されたものに差し替えられている。

 内容は,真阿の出家から入滅までを説いており,絵は土佐光信とされてきたが,室町時代の土佐派研究の進展により,現在では,光信の子の土佐光茂(みつもち)の作例として認められるに至っている。

 土佐光茂(生没年未詳)は,室町時代後期に活躍したやまと絵の絵師で,宮中や足利将軍家の画事を手がけた。基準作として「桑実寺縁起」(桑実寺蔵,重要文化財)などが知られる。

 本作の作風を,「桑実寺縁起」とつぶさに比較すると,巻下第3段は光茂本人の手になると思われ,その他の段も光茂様式で統一されていることから,本作は光茂及びその周辺の絵師による工房制作と考えられる。

 制作年代については,『言継卿記』永禄8年(1565)12月12日条に,誓願寺から「十念寺縁起」上下2巻が届いた記事があり,この時までに完成していたと見られる。この時期の十念寺は,天文5年(1536)に堂宇が焼失しており,寺には同年の勧進帳が2巻伝存している。この災厄と復興を契機として,本作が制作された可能性も考えられる。

 以上,本作は光茂自身と周辺絵師によって制作された,室町時代後期のやまと絵の縁起絵巻として貴重であり,制作年代がしぼれる点においても重要な遺品と言える。

 なお,本作には後奈良天皇宸筆の伝承がある旧題簽2対4枚が附属しており,附として保存を図る。

美術工芸品(彫刻)


木造深山正虎坐像 像内に願主上月宗全,大仏師清水隆慶等の銘がある 1躯 (指定)
〔市川車僧保存会〕

 本像は,謡曲「車僧(くるまぞう)」でも知られる鎌倉時代の禅僧,深山正虎(しんざんしょうこ)(生没年不詳)の肖像である。右京区太秦海正寺町所在の小堂に安置され,地元有志からなる保存会により護持されてきた。

 この地にはかつて「海生寺」という寺院があり,正虎が開いたとも,住んだとも伝わる。正虎の事績は多くは知られていないが,常に破車に乗ることから「車僧」と呼ばれたといい,謡曲「車僧」では,愛宕山の天狗との法力くらべを主題とすることからも,奇僧としてのイメージが強い人物である。

 正虎の肖像は,本像が知られるのみである。近年の調査で,像内に「清水右近隆慶(りゅうけい)」の銘記が確認され,江戸時代の仏師・清水隆慶の制作であることが判明した。

 隆慶は,京都を拠点に活躍した仏師で,四代にわたる活動が推定されている。本像は,作風や銘記から,初代隆慶(万治2年-享保17年〈1659-1732〉)の制作であると考えられる。

 「百人一衆」(個人蔵)などの作例でも知られるように,初代隆慶は,幅広い題材を,生気に満ちた姿に仕上げるが,本像においても,衣文や面相部に,実在の老僧を思わせる巧みな表現をみることができる。その写実性は同時期に制作された肖像彫刻のなかでも抜きん出ており,初代隆慶の技量のほどがうかがえる。

 よって本像は近世肖像彫刻の優品として評価できるだけでなく,初代隆慶の幅広い制作活動と技量を示す資料として,かつまた深山正虎に関する歴史的資料としても貴重と言える。

美術工芸品(古文書)


制札 6枚 (指定)
一,貞治四年十二月十四日 室町幕府使節代連署禁制
 「所定之堺,任雅意不可入当庄之山河者也」とある 1枚
一,貞治四年十二月十四日 室町幕府使節代連署禁制
 「所定之堺,任雅意不可入当庄之山河者也」とある 1枚
一,貞治四年十二月十四日 室町幕府使節代連署禁制
 「所定之堺,任雅意不可入当庄之山河者也」とある 1枚 
一,貞治四年十二月十四日 室町幕府使節代連署禁制
 「所定之堺,不可入朽木針畑以下百姓等者也」とある 1枚
一,貞治四年十二月十四日 室町幕府使節代連署禁制
 「所定之堺,不可入朽木針畑以下百姓等者也」とある 1枚
一,貞治四年十二月十四日 室町幕府使節代連署禁制
 「所定之堺,不可入朽木針畑以下百姓等者也」とある 1枚
〔久多自治振興会〕

 本文書は,貞治4年(1365)12月14日,室町幕府の使節(代官)が,久多庄の「堺(境)」に庄外の者が立ち入ることを禁じた制札である。6枚すべてが槍鉋等で表面を平滑にした檜と見られる柾目板に,本文が墨書される。

 内容は,3枚が久多庄への侵入を一般的に禁止するのに対して(以下「A」とする),残り3枚は具体的に朽木庄針畑の百姓達が久多庄内に侵入することを禁じている(以下「B」とする)。

 久多の旧家に伝来する貞治4年閏9月付「佐々木導誉代厳誉言上状案」によれば,これより以前,朽木氏綱は久多庄内の小河村を自領内へ取り込もうとしており,これらの制札が朽木庄との堺相論の結果,久多庄に与えられたことがわかる。

 制札の形状はほぼ同形の駒形であるが,両グループにはいくつかの差異がある。例えばAには制札を打ち付けた釘の穴が残っているが,Bにはない。また,Aは,少し幅広で厚みが薄く,表裏とも丁寧な仕上げであるが,Bは,節のある材を使用して,幅がやや狭く厚みもあり,削り方も粗い印象を受ける。さらに,Bは小口の年輪が連続しており,一材から切り出したことがわかる。

 こうした違いが生じた理由は定かではないが,いずれも保存状態がよく,特にAは実際に掲げられたことが確認でき,貴重である。

 なお,現存する中世の木製の制札は,ほとんどが軍勢の狼藉を禁止するもので,本文書のように庄内への侵入を禁ずるものは類例がなく,また同一の日付でほぼ同内容の制札が複数残る例も皆無で,古文書学の観点からも注目される。

 以上,本文書は非常に保存状態も良く,また他に類例を見ない内容を含んでおり,中世の久多庄周辺地域の歴史をはじめ,中世の荘園や室町幕府の組織などを知るうえで貴重な史料といえる。

美術工芸品(考古資料)


公家町遺跡(安禅寺杉之坊)出土品 281点 (指定)
〔京都市〕

 本件は,京都御苑内の北東部に計画された京都迎賓館建設に伴う発掘調査で出土した,江戸時代前期の門跡・公家が所持した高級陶磁器の具体相を示す一括出土資料である。

 公家町は,豊臣秀吉の京都改造事業によって形成され,それまで洛中各所に散在していた公家の屋敷地は現在の京都御苑周辺に集約された。

 本資料群は門跡寺院の里坊である安禅寺杉之坊が所在した宅地の穴蔵749から出土した。穴蔵749は建物内の地下蔵と考えられる。焼土と炭で埋まった埋没状況と,出土遺物の年代観から寛文11年(1671)火災の事後処理で埋められた一括遺物と推定できる。

 穴蔵749出土資料は,穴蔵ないしその近辺で保管していた器物を火災後に一括して埋めたと推定できる。同器形・同意匠の食膳具がセットで出土し,なかでも,異なる器形の5種の器に色絵染付に金銀彩で同一の文様を施した一群は特筆すべき資料である。極めて丁寧に絵付けしており,類例もないことから,特注品と考えられる。

 出土品からは,門跡・公家が当時最先端の文化を受容していたことも窺える。煎茶に用いる中国宜興窯(ぎこうよう)産の紫泥(しでい)茶罐(ちゃかん)や肥前磁器の煎茶碗からは,彼らがごく早い段階で煎茶文化を受容していたことを示す。肥前磁器の五彩蓋付壺および色絵蓋付鉢は,ヨーロッパ向けの製品であり,当時最先端の高級調度品と言える。茶道具や緻密な彫刻を施した硯など,門跡・公家の文化水準を示す資料も多数出土している。

 中国,朝鮮,ベトナム,タイからの輸入陶磁器,肥前,京都,瀬戸・美濃,備前,信楽,丹波,高取で生産された陶磁器が含まれ,全体として極めて豊かな内容となっている。

 以上のように,当該資料は,廃棄の年代が明らかであるとともに,江戸時代前期の門跡・公家が所持した高級陶磁器の実態を如実に示す重要な資料である。

公家町遺跡(櫛笥家)出土品 274点 (指定)
〔京都市〕

 本件は,京都御苑内の北東部に計画された京都迎賓館建設に伴う発掘調査で出土した,江戸時代前期の公家の生活相を示す一括出土資料である。

 公家町は,豊臣秀吉の京都改造事業によって形成され,それまで洛中各所に散在していた公家の屋敷地は現在の京都御苑周辺に集約された。

 本資料群は櫛笥家邸跡と考えられる宅地の土坑1447から出土した。土坑1447は,埋没状況と出土遺物の年代から,当初は屋敷の裏手に掘ったゴミ穴として機能し,1670年代に災害等を契機として,使用できなくなった陶磁器を一括廃棄して埋めたと考えられる。遺構内には,焼土・炭とともに多量の土師器皿が堆積していた。土坑1447が当初ゴミ穴として機能したこと,食膳具,調理具,貯蔵具などが揃い,日常生活に必須である焼塩壺が多数出土していることから,櫛笥家で日常生活に用いられた土器・陶磁器を多く含むと判断できる。主体となるのは肥前磁器で,ほかに瀬戸・美濃や,京都,唐津,丹波,備前といった国内各地で生産された陶器が出土している。町家域と比べ,肥前産陶器の出土数が少なく,磁器が多いという組成的特徴を持つ。また,1661年の清の遷界令(せんかいれい)(※)以後,輸入量が激減した中国産陶磁器も多数出土しており,景徳鎮窯系の優品の比率が高い。京焼の色絵陶器や陶製折敷は,後に広く流通した京焼の日常雑器とは異なり,京都の町家域や他地域ではほとんど出土せず,京焼の成立・展開と公家の関係を捉える上で,重要な資料である。国産陶磁器,輸入陶磁器を問わず,優品が多数含まれており,公家が高い品質の陶磁器を所持したことを示す。

 以上のように,当該資料は,廃棄の年代を推定できるとともに,公家が日常的に消費した土器・陶磁器として,江戸時代前期の公家の生活様相を明らかにする重要な資料である。

 ※遷界令…清が実施した貿易制限政策。

有形民俗文化財


桃山天満宮(ももやまてんまんぐう)の奉納(ほうのう)大工道具 60点 (指定)
 附 鞘(さや)10点
〔天満宮社〕

 桃山天満宮の奉納大工道具は,京都市伏見区の桃山天満宮(宗教法人天満宮社)が所蔵するもので,天保12年(1841)から慶応元年(1865)にかけておこなわれた社殿再建の記念として,伏見の大工・阪田岩治郎が奉納したものと伝えられている。

 本件は,墨掛(すみかけ)道具・定規(じょうぎ)類が6,罫引(けびき)が1,鋸(のこぎり)が6,鉋(かんな)が7,錐(きり)が3,玄翁(げんのう)・槌(つち)が5,鑿(のみ)が29,雑道具が3の合計60点で,附として鋸の鞘2,鑿の鞘7,雑道具の鞘1の10点からなる。特徴としては,釿(ちょうな)や釘抜(くぎぬき)・釘締など,一部の道具を欠くものの,当時の大工道具をほぼ網羅しているといえる。また,槌で叩いて使用する「叩き鑿」,手で押して使用する「突き鑿」など鑿の種類が豊富で,建具製作や彫刻も大工が担っていたことがわかる。そして,柄に紫檀・黒檀といった銘木を使用している鑿や,幅が13cmもある幅広の鉋など,町家建築には使用しない道具があることも特徴である。

 本件は,上棟式などに使われる儀式用の大工道具ではなく,実際に大工が使用してきたものであること,当時の大工道具一式をほぼ網羅したものであること,使用されていた年代が明らかなものとして貴重である。

 なお,本件は神戸市の竹中大工道具館に寄託されており,展示室で閲覧することができる。

記念物(名勝)


浄住寺の庭 (指定)

 淨住寺は,興正菩薩・叡尊(1201-1290)を開山とする律宗寺院として造営されたが,明応2年(1493)に破却された。その後,権大納言・葉室頼孝(1644-1704)が黄檗宗の鉄牛道機(1628-1700)に要請して元禄2年(1689)に中興した。伽藍の再建には,小田原藩主であり老中を務めた稲葉正則(1623-1696)ら鉄牛に帰依した大名らが支援した。

 伽藍の再建は元禄2年(1689)に開始され,同12月には鉄牛が晋山した。中興淨住寺の庭の築造時期は,文献上詳らかではないが,伽藍全体の様相が整った元禄10年以降と推定される。再建された伽藍のうち本堂,寿塔等が現存する。

 淨住寺の伽藍構成は,本堂・位牌堂・開山堂・寿塔が繋がって東側から西側の山手へと一列に並び,本堂と方丈が回廊で連結する。これら建物の周囲と中間に6区分の庭(方丈北庭,本堂・方丈東庭,本堂南庭,寿塔西庭,方丈南庭,方丈西庭)を配する。本堂と方丈廻りに位置する3箇所の園池は,山手からの雨水等を受ける。

 規模の大きな法要等の後は,本堂・方丈東庭に参列し,回廊の開口部より方丈南庭へ通じ,飛石を伝って方丈へと入室する。
淨住寺の庭は,京都市内に所在する黄檗宗14箇寺のうち近世の本堂と方丈,園池を備えた唯一のもので,中興開山・鉄牛に帰依した諸大名の支援により築造されたことが明確であり,近世の庭の歴史を辿るうえで重要な意味を持つ。

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お問い合わせ先

京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

〒604-8006 京都市中京区河原町通御池下る下丸屋町394 Y・J・Kビル 2階

電話:075-366-1498

ファックス:075-213-3366

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