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京都市指定・登録文化財-美術工芸(左京区)

ページ番号189523

2020年4月6日

京都市指定・登録文化財-美術工芸(左京区)

絖本著色草廬三顧・蕭何追韓信図 六曲屏風 与謝蕪村筆(こうほんちゃくしょくそうろさんこしょうかかんしんをおうのず よさぶそんひつ)

 両隻とも「礼」を主題とした作例。絖(ぬめ)と呼ばれる繻子地の絹に描かれた本図は,蕪村50歳前後の屏風講時代のもの。
絖本著色草廬三顧・蕭何追韓信図 6曲屏風 与謝蕪村筆

方丈障壁画 池大雅・与謝蕪村筆(ほうじょうしょうへきが いけのたいが・よさぶそんひつ)

 明和年間(1764~72)に,南画を代表する二人の画家,即ち大雅(1723~76)が方丈の上間二之間を,蕪村(1716~83)が室中・下間二之間の障壁画を制作。
方丈障壁画 池大雅・与謝蕪村筆

絹本著色足利義輝像(けんぽんちゃくしょくあしかがよしてるぞう)

 若くして松永久秀に攻め殺された室町幕府第13代将軍足利義輝(1536~65)を描いたもの。土佐光吉とも推定される源弐制作の紙形(京都市立芸術大学所蔵)を粉本として,もう一つの義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)と相前後する時期に制作されたと推定される。画面の細密な描写や華麗な衣装に見所があり,当時の土佐派画家の肖像画制作の水準の高さを示す作例として貴重。

絹本著色足利義輝像

絹本著色以心崇伝像(けんぽんちゃくしょくいしんすうでんぞう)

 以心崇伝(1569~1633)は徳川幕府の外交事務や寺社政策に協力するなど,幕府草創期の最高顧問的存在として君臨し,「黒衣の宰相」とも称される。本図の筆者は款記から狩野探幽の法眼時代,即ち寛永15年(1638)末から寛文2年(1662)までの間の制作と判断され,崇伝没後の遺像であることがわかり,崇伝の肖像画の中でも群を抜く出来栄えを示す。
絹本著色以心崇伝像

絹本著色石川丈山像(けんぽんちゃくしょくいしかわじょうざんぞう)

 石川丈山(1583~1672)は徳川家の家臣で,大阪の陣の後に出家し,京都で藤原惺窩(ふじわらせいか)から儒学を学ぶ。晩年の寛永18年(1641)に一乗寺に詩仙堂をつくり,読書や詩作のうちに風雅に富んだ隠遁生活を送った。本図は丈山80歳頃の姿を描いた,探幽の斎書き時代(1635~60)の最末期の作と推定される。
絹本著色石川丈山像

板絵著色鷲鷹図 渡辺始興筆(いたえちゃくしょくわしたかず わたなべしこうひつ)

 本扁額は,松樹にとまる鷹と狸を捕らえた鷲を一対の画面に配したもの。峰定寺の中興・元快の25回忌である宝暦元年(1751)に当時の住職深快により奉納された。鷲等を描く筆法には狩野派,土坡の形態には琳派の影響が見られる,渡辺始興(1683~1755)の最晩年の作。
板絵著色鷲鷹図 渡辺始興筆

木造十一面観音立像(もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう )

 浄楽堂に安置される,ヒノキ材を用いた一木造の像。すらりとした体躯で立ち,面相は優しく,衣文には美しい間合いが図られている。奈良時代以来の古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ9世紀後半から10世紀前半にかけての美作。なお,当初の板光背を残している点も貴重。

木造十一面観音立像

木造菩薩半跏像(もくぞうぼさつはんかぞう)

 寂蓮法師(1139~1202)ゆかりの寂蓮寺の遺物と伝える像。眼,鼻,口を小ぶりに,四肢を細身に造る点は平安時代最末期の華奢な様風を示しているが,豊かな宝髻,リアルな髪筋の彫り口や肉身の膨み,動きをはらんだ衣文等には鎌倉新様式の影響が認められる。12世紀末~13世紀初の作。

木造菩薩半跏像

木造毘沙門天立像(もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう)

 少年のような面差しをもち,平安時代後期の様式を基調にした穏やかで気品のある像。しかし,特に腰以下は太造りで,裳は動きを見せ,表面の各所に細かい部材を加える等,鎌倉時代の表現,手法も認められる。以上,新旧両様を取り混ぜて,鎌倉時代初期に制作されたと考えられる。
木造毘沙門天立像

木造天部形立像(もくぞうてんぶぎょうりゅうぞう)

 念仏堂に安置されていた諸尊の一つで,等身大の像。穏やかな相貌や身のこなし,花形の彫り文様の手法など,全体的に平安時代後期の様式が顕著に認められ,12世紀の制作と考えられる。平安時代後期の天部像としては佳品の部類に属する。
木造天部形立像

木造聖観音菩薩坐像(もくぞうしょうかんのんぼさつざぞう)

 柔らか味のある垂髻,細く鋭く彫られた眼,面長な顔つき,丸味のある衣文と鎬を立てた線的な衣文を用いる。三千院往生極楽院の阿弥陀三尊像の脇尊像と極めて近い作風を示し,同一工房の仏師により三尊像と近い平安後期に制作されたと考えられる。蓮肉,蓮弁に当初のものを残し貴重。
木造聖観音菩薩坐像

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだみょらいざぞう)

 大神宮社に隣接する神宮寺に安置されている像。螺髪は細かく,当初の光背の彫出花文と共に繊細な趣を呈す。一方,面貌や肉身に宿る現実感や,型にはまった配置を避けようとする丸みのある衣文の表現等に鎌倉時代の特色が現れている。前代の作風からの穏やかな移行を示す鎌倉初期の作。

木造阿弥陀如来坐像

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)

 本像は白河法皇が造営した蓮華蔵院の旧物と伝える。螺髪を小粒に整然と刻み,頬の膨らみや胸,腹,背などの肉付けも柔らかに表現されている。頭体の比例は調和がとれ,量感も程よく,全体に見られる穏やかな表現は,定朝様の特色を示すと同時に繊細さへの傾向も見せる平安後期の作。
木造阿弥陀如来坐像

木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう)

 大原薬師堂の本尊として守り伝えられたもの。頭部は丸く盛り上がる肉髻を表し,螺髪を小粒に整然と刻む。目鼻立ちは小づくりで,彫りは浅く,口元をつつましく表現する。体部は胸厚,膝高ともに薄く,衣文線も極めて浅彫である。繊細な作風を示す典型的な藤原時代末期の作である。
木造薬師如来坐像

木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう)

 頭体の均衡も写実的でバランスがとれた尊像である。衣の全体に彩色の跡が認められ,特に腹前,右袖外側などに蓮華唐草文や花丸文がよく残されている。体内銘から,本像は尊慶が正嘉2年(1258)に制作したものと確認される。尊慶なる仏師についての詳細は不明だが,13世紀中葉を活躍期とする慶派に連なる仏師と考えられ,本像は制作年,作者を共に明らかにする鎌倉時代の基準作例として貴重な作品である。

木造地蔵菩薩立像

木造文殊菩薩坐像・木造優闐王立像・木造最勝老人立像・木造仏陀波利三蔵立像(もくぞうもんじゅぼさつざぞう もくぞううてんおうりゅうぞう もくぞうさいしょうろうじんりゅうぞう もくぞうぶっだはりさんぞうりゅうぞう)

 金戒光明寺三重塔(寛永11年・重要文化財)に安置されている文殊菩薩像他全4躯。獅子(後補)に騎乗する文殊菩薩を中心に,手綱をとる優でん王・仏陀波利三蔵・最勝老人の三眷属(けんぞく)で構成されているが,もとは現在欠失している善財童子を併せて五尊像であり,中国の五台山に影現するという五台山文殊を彫刻によって表した作例である。慶派の流れをくむ仏師による鎌倉時代末期の五台山文殊であり,また彩色の保存状況が良い点においても貴重である。

木造文殊菩薩坐像
木造最勝老人立像

木造毘沙門天立像(もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう)

 寄木造・玉眼のほぼ等身大の毘沙門天像。鞍馬寺には,その草創の際に毘沙門天を安置したと伝えられることから多くの毘沙門天が残る。本像はその内の1躯。毘沙門天(多聞天)像は通常,多宝塔を捧げる姿であるが,本像は戟(げき)を握って左手を振り上げ,右手を腰に当てて左足を踏み出すという鞍馬式と称されるポーズをとる。13世紀前半の慶派(けいは)の優れた毘沙門天像として貴重。
木造毘沙門天立像

刺繍阿弥陀三尊来迎図(ししゅうあみださんぞんらいごうず)

 光背を背にした立像の阿弥陀如来と,蓮台を持つ観音菩薩,合掌姿の勢至菩薩が雲に乗り飛来する通例の三尊来迎図を刺繍で表した,総縫いの繍仏。表装部分にも刺繍の蓮唐草文を散らす。刺繍阿弥陀三尊来迎図の遺品は多く伝えられているが,その中で本図は像容の整った室町時代の典型的な遺品であり,保存状態も良好である点において貴重。
刺繍阿弥陀三尊来迎図

刺繍種子阿弥陀三尊図(ししゅうしゅじあみださんぞんず)

 阿弥陀来迎の図様を種子で表した総縫いの繍仏で,中央の円相内蓮台上に阿弥陀如来の種子「キリーク」,向かって右に観音菩薩の種子「サ」,左に勢至菩薩の種子「サク」を配す。本図は,江戸期の修理により画面右側が切り詰められているものの,鎌倉時代の浄土教系の繍仏においては,色調などの保存状態も良好である点,貴重な作例。
刺繍種子阿弥陀三尊図

刺繍種子阿弥陀三尊図(ししゅうしゅじあみださんぞんず)

 阿弥陀三尊像を種子で表した総縫いの繍仏。図様が通例の種子阿弥陀三尊繍仏とは大きく異なっており,阿弥陀の種子が中世の板碑などにも散見される特異な書体を持つ。また,独鈷と五鈷の三昧耶形や三面宝珠を飾る点から,真言系の作例に属することを示す。表装部分を失ってはいるものの室町時代の遺品として良くその色調を伝えている。

梵鐘(ぼんしょう)

 本梵鐘は撞座の位置が低く,駒の爪の出が大きいなど,室町時代の特色を顕著に備える。また,銘文から永享7年(1435)に大工藤原圀次が当来迎院の鐘として制作したことがわかる。圀次は広隆寺鰐口(1449)の作者藤原国継と同一人物と考えられ,藤井姓鋳物師から藤原姓の国久へと続く系譜の中に介在した鋳物師と考えられる。
梵鐘

光雲寺東福門院関係資料(こううんじとうふくもんいんかんけいしりょう)

 本資料は,大別して寛文年間(1661~73)の光雲寺の再興に力を尽くした東福門院 (1607~78)関係のもの,再興時及びその後の光雲寺の寺歴に関するもの,再興時の住持である英中玄賢(1627~95)関連の遺品からなるもの。
光雲寺東福門院関係資料

木造十一面観音立像(もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう)

 かつて,旧観音堂の本尊として安置されていた半等身の像。ヒノキ材を用いた寄木造で,彫眼の技法によって制作されている。後補の彩色によって像容を損なっているが,面部や衣文の流れなどに室町時代の特色がうかがえ,観音堂の成立時期を考える資料的として貴重なものである。
木造十一面観音立像

木造薬師如来立像(もくぞうやくしにょらいりゅうぞう)

 ヒノキ材を用いた寄木造で,漆箔,彫眼で仕上げられる。高い肉髻や穏やかな衣文の流れなどに平安時代後期の様風をとどめているものの,鎌倉時代の新様の影響も見られるところから鎌倉時代初期の作と思われる。頭部と体部の接合部にかなり損傷が見られるが,当時の作例として貴重。
木造薬師如来立像

岡田家文書(おかだけもんじょ)

 丹波,近江に境を接する山間荘園久多荘に伝わる文書で,山間荘園村落の構造を知るうえで重要。なかでも久多に十人百姓と称される上層農民が存在したことを示す文書等が注目される。
岡田家文書

川端家文書(かわばたけもんじょ)

 永正年間(1504~21)以後,川端家と称して餅を商い,禁裏にも供御した川端家に伝わるもの。永正9年(1512)の室町幕府奉公人奉書を最古とする中世文書から明治までの文書を含む。

川端家文書

大惣仲間文書(おおぞうなかまもんじょ)

 鞍馬法師仲間の一つ,大惣仲間の文書で室町時代末期から明治時代のもの。半僧半俗的な性格をもっていた大惣仲間と当時の鞍馬の生活を知る上で貴重。
大惣仲間文書

東本家文書(ひがしもとけもんじょ )

 丹波,近江に境を接する山間荘園久多荘に関する文書で室町時代後期~江戸時代のもの。山間林業村落の社会組織や経済を理解する上で貴重。
東本家文書

木造地蔵菩薩坐像(もくぞうじぞうぼさつざぞう)

大般若経(だいはんにゃきょう)

 左京区久多自治振興会が所有する本品は,鎌倉~室町時代の書写奥書を持ち,ほぼ600巻が揃っている。本品は経櫃に納められ,久多中ノ町の志古淵(しこぶち)神社の蔵に保管されていた。経櫃には貞和2年(1346)の年紀がみえ,久多に伝来した時期が確定できる。奥書(おくがき)のあり様からほぼ建保2~5年(1214~17)に書写が終了したと見られ,その内容により本品の書写に三井寺が深く関っていることがうかがえる。また,法成寺(ほうじょうじ)本を底本にした「聖覚」という僧が,藤原通憲(信西)の孫であり「安居院法印(あぐいのほういん)」とも呼ばれた聖覚(せいかく)(1167~1235)ならば,本品は摂関家とも何らかの関係があったと考えられる。発願,伝来等の経緯は未詳ながら,おおむね鎌倉時代前期のほぼ揃った大般若経として貴重であり,書写奥書,修補銘なども豊富で資料的な価値も高い。
大般若経

紙本墨画檜原図(しほんぼくがひばらず)

 水墨で檜林(ひのきばやし)を描く6曲1隻の屏風に,寛永の三筆として知られる近衛信尹(このえのぶただ)(1565~1614)が「初瀬山夕越え暮れてやどとへば(三輪の檜原(ひばら)に)秋かぜぞ吹く」という和歌を大書している。信尹は,屏風に直に大書する作例をいくつか残しているが,下絵の水墨画と融合して,和歌の世界を表現する例は本図のみである。また,和歌の「三輪の檜原に」をあえて書かず,絵が代わって表現する趣向や,賛を予定してモチーフが中央に寄せられた構図など,水墨画と書との計算し尽された関係は特筆に値する。檜林は,抑制の効いた筆致と墨の階調で巧みに表現されており,絵師の優れた技量がうかがえる。落款はなく,筆者は不詳であるが,長谷川等伯(1539~1610)とする説が提出されている。上質の絵画と書をあわせもち,近世初期の書,工芸,絵画の動向が深く絡み合う貴重な作例。
紙本墨画檜原図

木製五輪塔(もくせいごりんとう)

 本品は,ヒノキと見られる針葉樹の芯の部分を軸とした竪一材から彫成されており,地輪の下に基壇が備わっている。空輪と地輪,基壇に納入孔があり,X線撮影で,空輪には舎利らしき物質が,地輪,基壇にも納入品が確認された。空輪から地輪には梵字が墨書されており,基壇には「己卯歳/平治元年/十二月九日/施入僧寂念」,「入道西念」などの墨書がある。平治元年(1159)12月9日は,平治の乱が勃発した日に当たり,年紀を信頼すれば,本品は平安末期に遡る五輪塔の遺品と言える。五輪塔の現存遺品は平安後期から確認されるが,年代の判明する例は少なく,本品は木製としては現在知られる最古の五輪塔であり,納入品が確認された最古例でもある。墨書の「入道西念」,「施入僧寂念」は,それぞれ峰定寺の開祖である観空西念と,常盤(大原)三寂と称される藤原為業(ためなり)であった可能性がある。以上,本品は銘文により製作年代が推定できる平安末期の貴重な五輪塔の作例であるとともに,木製五輪塔として,また納入品が確認できる最古の遺品として貴重である。
木製五輪塔

実相院文書(じっそういんもんじょ)

 本文書は,岩倉実相院に伝来する中世文書群である。実相院は,もと天台宗寺門派の門跡寺院で,応仁の乱を避けて当初の所在地から,支配下にあった岩倉の大雲寺に移転,近世に入り大雲寺を兼帯した。このため,本文書には,実相院に伝来した文書と,大雲寺伝来のものとが混在する。実相院伝来の文書としては,観応3年(1352)の「実相院増基(ぞうき)譲状」など,南北朝期の門跡の継承を知る上で貴重である。所領に関する文書は多数で,長禄3年(1459)の「実相院門跡領目録」では,中世の実相院の所領の多さが確認できる。これは足利将軍家の厚い庇護によるもので,応永19年(1412)の「足利義持御判(ごはん)御教書(みぎょうしょ)」など,それを裏付ける文書も多い。大雲寺伝来の文書の数は少ないが,応永6年(1399)の「北岩倉中殿敷地」を安堵した「足利義満御判御教書」が最も古く,応徳2年(1085)の「検非違使庁勘録状(けびいしちょうかんろくじょう)写」は大雲寺の境界を記す点で,写しながら貴重である。また,本文書総体で興味深いのは,実相院と大雲寺との関係を示す史料である。大雲寺が,実相院の下知に従わなかったことが,嘉吉3年(1443)の「三位賴尚等起請文(きしょうもん)」などから知れる。永正12年(1515)から同14年にかけて幕府が実相院に大雲寺の管領を認めた「室町幕府奉行人連署奉書」8通からは,戦国期を通じて進行した実相院による大雲寺支配強化の過程がよくわかる。本文書群は中世の実相院という門跡の継承関係・知行実態はもとより,門跡とその支配寺院との関係を知るうえでも重要であり,さらには戦国期の京都および洛北の動静を伝えても貴重なものといえよう。
実相院文書

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