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新指定・登録文化財 第28回京都市文化財

ページ番号175571

2020年4月6日

新指定・登録文化財 第28回京都市指定文化財

 京都市では京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。

 平成22年2月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに9件を指定しました。(平成22年4月1日告示)

 これにより,京都市の指定・登録文化財は全部で477件になりました。(平成22年4月1日現在)

*〔 〕内は,文化財の所有者名です。

建造物

春日神社宝蔵

春日神社宝蔵(かすがじんじゃほうぞう)   1棟(指定)

附 棟札 1枚  建武肆年丁丑三月一日棟上の記がある

  宮野大明神記録帳 1冊

〔京都市右京区京北宮町 春日神社〕

 春日神社は,右京区京北黒田地区の旧宮村(現宮町)に所在する。宝蔵は本殿の近傍に建ち,かつては大般若経六百巻と十六善神像を収蔵していた。

 建物は,桁行(けたゆき)1間,梁間(はりま)1間,切妻造,平入り,鉄板葺の板倉(いたぐら)であり,主要部材にクリ材を多用していること,格子を組んだ外壁とすること,軒は板軒であり,軒板先端が特殊な方法で支持されているなど,材料的にも構法的にも特異な板倉である。また,外壁の当初材にはかなりの風食がみられ,建立年代の古さを示している。

 以上のような遺構の状況に加え,棟札や,社蔵の文献史料の記載を勘案すると,宝蔵は建武4年(1337)に建立されたと推定することができる。

 春日神社宝蔵は,材木の豊富な京北地域の神社で見られた板倉の宝蔵(経蔵)の残り少ない一事例であるとともに,板倉として中世にさかのぼる,また類例がない形式をもつ遺構として貴重である。

美術工芸品

祇園会保昌山前懸胴懸下絵

祇園会保昌山前懸胴懸下絵(ぎおんえほうしょうやままえかけどうかけしたえ) 

円山応挙筆 二曲屏風1隻・六曲屏風2隻(指定)

附 前懸胴懸裏地「画工 圓山主水」「安永二癸巳歳六月日」の墨書がある  1枚

〔京都市下京区東洞院通松原上る燈篭町 財団法人保昌山保存会〕

 祇園祭の山鉾のひとつである保昌山の前懸,胴懸のために円山応挙(1733~95)が描いた下絵(前懸分1枚,胴懸分2枚)。

 前懸,胴懸裏地の墨書から,安永2年(1773)に刺繍が完成したことがわかり,その下絵である本図も制作年代が推定できる。写生画で名を馳せた応挙らしく,写生をもとにした精緻な描写が認められる。また,丁寧に施された淡彩の色合いも美しく,下絵とは思えないほど完成度が高い。人物の背景が紅で彩られるのは,刺繍の下地に緋羅紗(ひらしゃ)を想定して下絵を考案したことを示している。

 応挙は他にも月鉾の軒裏板絵を描いている天明4年(1784)が,本図はそれよりも早く,有名絵師による山鉾の装飾品としては最初期のものと位置づけられる。下絵ながら,応挙の力量が如何なく発揮された作品であり,京都の絵師と祇園祭の関係を知る上でも貴重である。

大般若経

大般若経(だいはんにゃきょう) 599巻(指定)

附 経櫃 3合,経帙 61枚

〔京都市左京区久多 久多自治振興会〕

 左京区久多自治振興会が所有する本品は,鎌倉~室町時代の書写奥書を持ち,ほぼ600巻が揃っている。本品は経櫃に納められ,久多中ノ町の志古淵(しこぶち)神社の蔵に保管されていた。

 経櫃には貞和2年(1346)の年紀がみえ,久多に伝来した時期が確定できる。奥書(おくがき)のあり様からほぼ建保2~5年(1214~17)に書写が終了したと見られ,その内容により本品の書写に三井寺が深く関っていることがうかがえる。また,法成寺(ほうじょうじ)本を底本にした「聖覚」という僧が,藤原通憲(信西)の孫であり「安居院法印(あぐいのほういん)」とも呼ばれた聖覚(せいかく)(1167~1235)ならば,本品は摂関家とも何らかの関係があったと考えられる。

 発願,伝来等の経緯は未詳ながら,おおむね鎌倉時代前期のほぼ揃った大般若経として貴重であり,書写奥書,修補銘なども豊富で資料的な価値も高い。

無文銀銭

小倉町別当町遺跡出土 無文銀銭(むもんぎんせん) 1点(指定)

〔京都市中京区上本能寺前町 京都市〕

 平成6年度実施の左京区北白川別当町所在,京都市立北白川小学校内の発掘調査において出土した市内で唯一の無文銀銭。飛鳥時代から奈良時代前期の集落遺跡である小倉町別当町遺跡から,竪穴住居や掘立柱建物とともに検出された土坑の底より出土した。飛鳥時代後半から末頃(7世紀後半~8世紀初頭)に推定される。

 直径30.6mm,厚さ2.0mm,重量9.5gで,中央に円形の小孔を穿(うが)つ。表面には「高志□」の3字と「T」字形の記号が鏨で刻まれ,「高志」は地名,人名,吉祥句の三通りに解釈される。

 明確な文字を刻んだ無文銀銭としては他に例をみず,山背国北東部と近江大津京とを最短ルートで結ぶ古道に隣接する集落より出土したことから,畿内と他地域との貨幣流通を検討する上でも重要な資料である。

「内酒殿」木簡

平安宮内酒殿(うちのさかどの)跡出土 「内酒殿」木簡 1点(指定)

〔京都市中京区上本能寺前町 京都市〕

 平成7年度実施の京都市上京区日暮通下立売上る分銅町における発掘調査で出土した木簡。調査地は内裏に東接し,天皇の家政機関が集中する重要な場所に相当する。

 平安時代前期の井戸より出土した木簡は,最大幅3.0㎝,厚さ0.5㎝で,長さは18.3㎝残存し,「内酒(うちのさか)殿(どの) 夫貳人料(ふににんりょう)飯捌升(いいはっしょう) 人別四升(にんべつよんしょう) 弘仁元年十月十八日 山作(さんさく) 大舎人(おおどねり)□□□」との墨書が残る。その内容は,弘仁元年(810)に山作りに携わった夫の食料として,大舎人□□□から内酒殿宛に米を請求したものである。文献資料における内酒殿の初出は元慶五年(881)であり,木簡の出土により弘仁年間にはすでに内酒殿が存在していたことが明らかになった。

 平安宮域で出土した唯一の文書木簡であり,調査地周辺に内酒殿が存在したことを裏付け,さらに宮内官衙の変遷や消長を知る上で重要な資料といえる。

人形代

平安京跡出土 人形代(ひとかたしろ) 男女2躯(指定)

〔京都市中京区上本能寺前町 京都市〕

 平成16年度に右京区西院西溝崎町(平安京右京六条三坊六町)での発掘調査で出土した人形代。調査では平安時代前期の掘立柱建物2棟や井戸1基などが検出され,人形代は井戸より2躯とも頭を東に向けた仰向けの状態で出土した。9世紀前半の年代が想定される。

 人形代は立体形で,大型品は男性像,小型品は女性像と推定される。いずれも一木削り出しで成形されるが,両腕は別材で作り,木釘で固定し後ろ手に回る。削り出された頭部には目・鼻・口・髪などが墨書で表現され,胸部には名前が墨書される。立体的で非常に写実的に形作られた人形代で,製作時期である平安時代前期の風俗を知る上で重要であり,また,出土状況や後ろ手の形態から呪術などの当時の精神生活を知る資料としても大変貴重。

和歌墨書土器

平安宮跡出土 和歌墨書土器   1点(指定)

〔京都市中京区上本能寺前町 京都市〕

 上京区下立売通日暮西入中村町における昭和52年度実施の発掘調査より出土した墨書土器。調査地は平安宮の東辺部中央,内裏東方に位置する左兵衛府及び侍従所付近に推定される。発掘調査で検出された平安時代の遺構群のうち,墨書土器は平安時代中期の南北溝(幅約1.5m,深さ約0.65m)から出土した。10世紀前半に推定される。

 土器の内面には平仮名で三行に分けて和歌一首が墨書され,『万葉集』や『伊勢物語』,『蜻蛉日記』などの文献資料にも記されている,土器に和歌を書いてやりとりする和歌贈答という行為を直接示す遺物である。

 土器に和歌を記した唯一の考古資料として貴重であるとともに,最初期の平仮名で書かれた和歌の稀少例として平仮名の成立過程を示す重要な資料である。

史跡

小野瓦窯跡

小野瓦窯跡(おのがようあと)(指定)

〔京都市左京区上高野小野町 祟道神社〕

 小野瓦窯跡は,平安時代の法令集『延喜式(えんぎしき)』巻34「木工寮(もくりょう)」条に記された小野瓦屋と推定されている。

 この瓦窯跡は,祟道神社の御旅所,通称「おかいらの森」と呼ばれる小丘に該当する。平成16年の発掘調査で,この小丘全体が多量の瓦,焼土,炭化物を含む平安時代に築かれた人工の盛土であり,この人工の盛土を掘り込んで半地下式有牀式(ゆうしょうしき)平窯(ひらがま)1基が造られていることが判明した。

 確認された1号瓦窯跡は,全長3.6mあり,焚口,燃焼室,隔壁及び焼成室が極めて良好に残存している。さらに,小野瓦屋を示す「小乃(おの)」銘軒平瓦と,木工寮を示す「木工(もく)」銘平瓦が出土した他,平安宮朝堂院(ちょうどういん)・豊楽院(ぶらくいん)をはじめとする平安京内外の公的施設で出土する瓦と同笵(どうはん)の瓦も多数出土した。

 以上,史料から瓦屋名がわかる稀有の平安時代中期の官営瓦工房跡であり,遺跡の残りもきわめて良く,平安時代の手工業史や瓦の生産・流通史,平安京の歴史を解明する上でも貴重な資料である。

名勝

角屋の庭

角屋(すみや)の庭 (玄関庭・東坪庭・中坪庭・西坪庭・座敷庭)(指定)

〔京都市下京区西新屋敷揚屋町 財団法人角屋保存会〕

 角屋は,江戸期の京都において,唯一公許の花街とされた島原に位置する。かつて花街において,飲食を伴う遊興などを行う施設であった「揚屋」の現存唯一の遺構である。客層は町衆のみならず公家・武家にまで及び,豪奢な遊興が展開された。そのような客筋に対応して揚屋の屋敷は,当代の粋を尽した豪華な内外装になる傾向があった。

 寛永17年(1640)の島原創設以来の伝統をもつ角屋において,江戸期の系統を継承している露天の庭は,玄関庭・東坪庭・中坪庭・西坪庭・座敷庭である。玄関庭と坪庭は,大規模建造物の内部に通風や通光をもたらし,雨水排水に寄与している。座敷庭は,寛政11年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』にて描写され,臥龍松と呼称されるクロマツが角屋の名物として人気を博した。

 それらの庭は改修を経ているが,変遷の記録と復元が行われ,配置構成は概ね保たれている。揚屋に築かれた庭として貴重である。

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