新指定・登録文化財 第34回京都市文化財

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2016年4月7日

新指定・登録文化財 第34回京都市文化財

 京都市では,京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。

 平成28年2月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに7件を指定し,1件を名称変更しました。(平成28年3月31日)

 これにより,京都市指定・登録文化財は全部で503件になりました。(平成28年4月1日現在)

 *〔  〕内は,文化財の所有者又は保持団体名です。

建造物


白山神社本殿 1棟(指定)
〔京都市右京区京北田貫町 白山神社〕

 白山神社は,若狭高浜と京都を結ぶ旧高浜街道沿いに発展した田貫の集落の産土神である。明治維新までは,白山妙見大権現宮と称していたが,明治6年(1873)には村社として定められ,白山神社と改称した。

 街道に南面して鎮座する本殿は,祈祷札や高欄の擬宝珠(ぎぼし)銘から元禄2年(1689)に造営されたことがわかる。覆屋(おおいや)の内に建っているため,保存状態は良好で,改変の痕跡が見られない。

 建物は,二間社流造(にけんしゃながれづくり),檜皮葺(ひわだぶき)である。身舎(もや)は,一間おきに丸柱を立て,内部は段差をつけて内陣と外陣に分かれている。向拝(ごはい)も、身舎と等しく一間おきに面取角柱を建てる。流造は一般に奇数柱間で建てられるため,二間社流造は数少ない形式である。

 身舎と向拝を繋ぐ海老虹梁(えびこうりょう)には,猪の目に赤,端部に白の彩色,若葉,渦に墨差しが施されている。絵様の渦は円弧で幅が狭く,彫りの浅い古風な表現である。身舎と向拝の正面の蟇股(かえるまた)は菊の彫物,身舎側面は,蕨手(わらびで)様の彫物が彫られ,各々彩色のあとが見られる。

 丹波地方の神社は,白木とするものが多く,白山神社も同様である。社殿の彫物には,彩色の痕跡がみられるものの,装飾は控えめで,全体的にやや古風である。

 白山神社本殿は,建立年代が明らかであり,改変が少なく,保存状態も良好であり,かつ,稀少な二間社として貴重である。

 また,当神社には,田貫村の人々より寄進された江戸時代の燈籠や絵馬,若狭大工の名を記した奉納木槌などが保存されている。これらの資料は神社と田貫村との関わり,建築工事の様子を示す歴史的資料として重要である。 

美術工芸品(絵画)


紙本金地著色車争図 
土佐光茂筆六曲屏風 1双(指定)
〔京都市右京区御室大内 仁和寺〕


 

 本図は『源氏物語』第9帖「葵」のいわゆる「車争い」の場面を描いた六曲一双の屏風である。筆者は作風から土佐光茂(みつもち)(生没年不詳)とされており,室町時代後期のやまと絵系屏風の代表的作例として,かねてから知られる優品である。

 本図が題材とする「車争い」は,賀茂祭の新斎院の御禊(ごけい)の行列に,光源氏が宣旨を受け特別に供奉(ぐぶ)することになったため,一目見ようと出かけた六条御息所の牛車を,後から来た葵上の一行が狼藉を働いて押しのけてしまうという場面である。右隻には御禊のきらびやかな行列を描き,左隻には六条御息所と葵上の一行が争う場面が描かれている。仁和寺所蔵の本図は,『御湯殿上日記(おゆどのうえのにっき)』の永禄3年(1560)7月から12月にかけて断続的に記録されている土佐光茂が制作した「車争図屏風」に該当すると考えられてきた。土佐光茂は,大永3年(1523)に宮廷の絵所預(えどころあずかり)に就任し,宮中のみならず,足利将軍家の画事も手がけたやまと絵の絵師である。本図の構図を京都市歴史資料館蔵「車争図屏風」,東京富士美術館蔵「車争図屏風」などが写しており,後世の作品に与えた影響は大きい。図様の創出に光茂が関与したとされるやまと絵系屏風の現存遺品は稀少で,かつ文献の記録と重ね合わせることのできる点で,本図は絵画史上重要である。数少ない16世紀の大画面の源氏絵であるとともに,光茂の現存する屏風の作例として,さらに,源氏物語をとおしてではあるが,往時の賀茂祭の盛儀の一端を描く屏風として大変貴重である。


書院障壁画 曽我蕭白筆 4面(指定)
〔京都市上京区寺町通今出川上る鶴山町 十念寺〕

 曽我蕭白(1730~1781)は,18世紀後半に京,伊勢,播磨などで活躍した絵師である。冴えた筆技に加え,奇怪な造形感覚とあくの強い色彩感覚を併せ持ち,同時代の伊藤若冲,長澤蘆雪とともに,個性的な画風を完成させたことで知られている。本図は,蕭白が襖4面に水墨で描いた「雲龍図」で,十念寺に伝来した,高さ2メートルにも及ぶ大型の襖である。龍の周辺はむらむらとした墨で塗りこめられており,黒々とした渦もみられるが,それは,「群仙図屏風」(文化庁蔵,重要文化財)の渦と同じように,龍が巻き起こす風を表したものと思われる。署名の下に押される「蕭白」印は安永7年(1778)春の年紀のある「蘭亭曲水図」(個人蔵)より欠損がやや進んでいるので,本図は,それ以降の制作と考えられる。寺に残る記録によれば,安永7年に本堂の大襖4面の画ができたとあり,日付及び絵師に関する記述はないものの,これが本図に該当する可能性が高いと思われる。蕭白は40歳代はじめまで諸方を遊歴し,明和9年(1772),43歳の頃に京都に定住したと考えられているが,安永10年(1781)正月に52歳で没したことから,京都定住は10年にも満たない。そのため,蕭白の代表的な障壁画は京都市外に残るものがほとんどである。加えて蕭白の作品には,制作年代を特定できるものが少ない。本図は京都市内に残る,稀少な蕭白の障壁画であるのみならず,文献から制作年代を特定できる晩年の大画面の基準作としても重要である。

美術工芸品(工芸品)


懸仏 永享十年等の銘がある 1面(指定)
〔京都市右京区京北上中町 八幡宮社〕

 弓削八幡神社とも呼ばれる八幡宮社は,右京区京北の南北を貫く周山街道の西側に開けた上中地区に鎮座する旧郷社である。社伝によると,貞観元年(859)に現在地に創祀されたという。

 本品は,同社に伝来した径60センチメートルを超える大型の懸仏で,裏面の墨書より,永享10年(1438)に,弓削庄一宮八幡大菩薩の本地仏として,大願主「勝山清光」によって製作されたことが知られる。

 かつて社殿には,本品を含む3面の懸仏が奉懸されていた。このうちすでに2面の懸仏は,昭和56年5月19日付けで京北町の有形文化財として指定された後,平成17年に同町が京都市と合併した際に移管され,引き続き保存がはかられている。

 3面の懸仏は,いずれも木製金銅装で,圏帯(けんたい)で画された内区の中央に銅板打ち出しの三尊を取り付け,上方に天蓋(てんがい)を備え,1対の華瓶(けびょう)を配するもので,下方に水波文を表わす薄板を取り付けている。外区には,三鈷杵や花形の飾り金具,覆輪(ふくりん)には笠鋲(かさびょう)を打ち廻し,にぎやかに荘厳(しょうごん)している。こうした形態は,総じて室町時代前期の懸仏に共通する。また本品には,懸仏製作に関わる出資の額を記しているが,こうした類例は,滋賀・葛川(かつらがわ)明王院の文安4年(1447)銘宝塔(ほうとう)懸仏(重要文化財)などわずかであり,この時期の懸仏の製作背景を示す資料として重要である。

 大型懸仏の基準作例として,また保存状態も良好であり,すでに指定されている2面の懸仏とともに重要である。


懸仏 應永廿三年等の銘がある 1面(名称変更)
〔京都市右京区京北上中町 八幡宮社〕

 本品は,八幡宮社に伝来した径60センチメートルを超える大型懸仏3面のうちの1面で,裏面墨書より,応永23年(1416)に製作されたことが知られる。

 3面のうち,本品を含む2面は,昭和56年5月19日付けで京北町の有形文化財として指定された後,平成17年に同町が京都市と合併した際に移管された。

 2面の懸仏の指定名称は,いずれも「懸仏」であったが,本品には「應永廿三年壬申六月十九日」の紀年銘があるため,この紀年銘を加えた名称に改める。

美術工芸品(考古資料)


平安京左京二条二坊「冷然(泉)院」出土品 352点(指定)
〔京都市中京区上本能寺町 京都市〕

 嵯峨天皇(在位809~823)が創建した冷然院は,平安宮の東南に隣接する平安京左京二条二坊三から六町の四町を占める。本件は同三町域にて,昭和57年度,平成7年度,平成23年度に行われた3件の発掘調査で検出された溝出土の資料である。溝は,平安京条坊モデルに対照すれば,冷然院北築地の内溝に該当することが明らかで,幅0.9~1.0m,深さ0.9m,断面は逆台形を呈し,埋土から多量の遺物が出土した。掘り直しの痕跡はなく,短期的に埋められたと判断できる。

 この北築地の内溝からは9世紀前半の土器が11万片あまり出土した。そのなかから残りが良く,年代基準となり,かつ冷然院という遺跡の性格を反映した資料を選択した。この中には,中国からの輸入品で稀少な青磁椀を模した国産施釉陶器-緑釉陶器が多量に含まれる。その中の尾張産緑釉陶器は一見して優品といえ,全国的にも出土例が少ない。 

 本件の緑釉陶器は,生産の問題や器形の種類から唐風文化を好んだ嵯峨天皇の嗜好を反映して作られたものと考えられ,当時の宮廷における宴会のしつらえを彷彿とさせる。

 冷然院の推定地は,現在大部分が国史跡旧二条離宮(二条城)の中に位置し,今後,時期の異なる重要資料が出土することも期待できる。北築地の内溝資料は,冷然院の実態を示す各期遺物群の嚆矢となる指定物件としてふさわしいものである。

美術工芸品(歴史資料)


京都市参事会文書 158点(指定)
〔京都市中京区上本能寺町 京都市〕

 本資料は,明治22年(1889)から昭和22年(1947)の間に京都市参事会で作成された公文書を年代別に編綴した原簿で,明治22年6月の第1回参事会から戦後,地方自治法の施行により同会が廃止されるまでが,まとまって伝存する。

 明治期の市参事会は,合議制の執行機関であり,市長1名・助役(京都は2名)・名誉職参事会員(京都は9名)で構成され,今日の市長独任制とは大きく異なる制度であった。明治44年(1911)の市制改正に伴い,市参事会は諮問機関へと改められたが,同会が執行機関であった明治後半期には,京都の都市整備が進められており,本資料には,近代京都の歩みを知る上で欠くことのできない貴重な文書が多数含まれる。

 主な簿冊内容としては,琵琶湖疏水関係記事,円山公園に関するもの,明治28年に開催された平安遷都千百年紀念祭,第4回内国勧業博覧会に係わるもの,京都市三大事業(第二琵琶湖疏水建設,上水道敷設,道路拡築)関連などの都市整備に係わる文書のほか,京都市消防夫の被服入札時の図案や京都市立染織学校の校舎新築に関する書類,また,京都初のホテルといわれる也阿弥ホテルが明治33年の火災焼失後,再建にあたって申請した設立願や仕様書,建築図面なども含まれており,京都市参事会が担当した案件の多様さをよく伝える。

 本資料は,近代都市京都の形成,発展の過程をきわめて克明に知り得る史料として,とりわけ高い価値を有するものと言える。

記念物(名勝)


等持院の庭 7,427.69㎡(指定)

 等持院は,北区の衣笠山麓に所在する臨済宗天龍寺の塔頭であり,歴代の足利将軍の葬送が行われたことで知られる。室町幕府の衰退と共に一旦荒廃したが,慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって修造された。現在の同院の境内は,文化5年(1808)の罹災の後,文政元年(1818)に再建されたものである。

 等持院の庭は,唐門と表門を擁する土塀で区切られた北側の一画において,<庫裏の玄関庭>,<方丈の大庭>,<園池>の3箇所に大別される。園池の西池は,寛政11年(1799)刊の『都林泉名勝図会』の挿図に描写された形態を継承している可能性が高い。

 <庫裏の玄関庭>は,東側に土塀,西側に東司,南側に表門,北側に庫裏を配する平坦地である。各入口は,石敷きの園路で繋がれ,その余地に植栽樹木と景石を配する。

 <方丈の大庭>は,方丈に南接する白州であり,唐門を配する北側土塀沿いに植栽と景石を配する。

 <園池>は,矩形に配された方丈と書院の東北に穿たれた西池と境内の内郭東半に穿たれた東池からなる。北側の敷地境界に築かれた小高い築山には,景石が点在する。中島や枯滝・清蓮亭と呼ばれる茶室を配する西池は芙蓉池,中島や岩島を抱く東池は心字池と呼ばれ,それらのほぼ中間には足利尊氏の墓所が設けられている。

 足利将軍家と深い縁をもつ等持院の庭は,江戸中期の記録が残り,『都林泉名勝図会』に描写された形態を色濃く残すものとして重要である。

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