京都市指定・登録文化財-名勝(左京区)

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2016年4月7日

京都市指定・登録文化財-名勝(左京区)

光雲寺庭園(こううんじていえん)

 光雲寺は,南禅寺の境外塔頭である。庭園が築かれたのは,寛文から延宝年間にかけての寺の造営時と考えられ,『都林泉名所図会』には池を備えた庭園の姿が描かれている。現在の庭園は,昭和2年に7代目小川治兵衛(植治)によって,新規に築かれたものと推測される。庭園は,東山を間近にして庫裏と書院に面する。小さな滝を介し,山裾から導かれてきたと思わせる流れは,一旦中心の池に注ぎ,再度流れへと姿を変え,白川に配水されている。池の脇には築山が廻り,イロハモミジ,スギ,サルスベリ等が植栽されている。随所に植治の作風と円熟した技が残されている庭園として貴重なものである。
光雲寺庭園

三千院有清園庭園及び聚碧園庭園(さんぜんいんゆうせいえんていえんおよびじゅへきえんていえん)

 三千院は比叡山延暦寺の別院で,江戸時代には円徳院,円融院と号しており,明治4年以降三千院の名が用いられている。有清園及び聚碧園の庭園の庭造りに関する資料は確認されていないが,江戸前期には成立していたと考えられる。有清園は宸殿に南面し,阿弥陀堂の西側に石組みと池を有する。敷地一面に広がる苔地にスギが林立する光景が印象的である。聚碧園は客殿の南東側に位置し,敷地の高低差を利用した池と築山を有する。双方の庭縁は古くからのたたずまいが残されている貴重な庭園である。
三千院有清園庭園及び聚碧園庭園

白河院庭園(しらかわいんていえん)

 白河院庭園は7代目小川治兵衛(植治)によって手がけられたものであり,呉服業を営んでいた下村忠兵衛の所有となった翌年の大正8年(1919)に竣工した。造営当初は,東山を背景とする庭園に面して,二階建ての和館と洋館が南北に並立していた。洋館と和館の一部は昭和33年(1958)に取り壊されたが,その際にも庭園部分は殆ど改変を受けなかった。庭園は南北に細長い園池を中心とし,園池の東半周を囲む築山上に群植されたアカマツやイロハモミジ越しに,東山を望む大らかな敷地構成をとり,建物との間には明るい雰囲気の芝生広場が広がる。東山の眺望を活かした,植治の円熟期の技が随所に現れた貴重な庭園である。
白河院庭園

鴨脚家庭園 (いちょうけていえん)

 鴨脚家庭園は賀茂川に架かる葵橋東詰の北部に位置する。近隣は,応仁年間からの記録が残る賀茂御祖神社の社家町であったが,下鴨本通の開通に伴い数多くの社家が退去したため,鴨脚家は唯一現存する賀茂御祖神社の祝(はふり)(神官)の屋敷である。庭園は東西に並列する和館2棟に南面し,形態は全体として歪な方形の擦り鉢といった形態をしており,周囲より一際窪んだ中心部に泉がある。塀際には築山が配され,高さの異なる石積が築山と和館の際を取り囲むようにして高低差を埋めている。水の供給を湧水という自然の力に頼り,賀茂御祖神社の祝の現存する唯一の屋敷に設けられた庭園として貴重である。 

鴨脚家庭園

西翁院露地(さいおういんろじ)

 西翁院露地は,黒谷浄土宗の本山金戒光明寺の塔頭西翁院境内にある。

寛政十一年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』に,露地の様相が描かれている。茶室 澱 ( よど ) 看席 ( みのせき ) は,寛文十一年(1671)の建築であると考えられ,江戸前期の茶人藤村庸軒作と伝えられる。

露地は鍵形の敷地をもち,内露地と外露地からなる。中門を潜り,露地へ導かれると,すぐに石段を下り腰掛に至る。腰掛の北方には連続して飛石が打たれ,西側は高生垣で遮蔽されている。高低差のある東側には混垣が巡り,中央の石段で内露地と連絡している。本堂から南西を眺めると,眼下に京都市街を広く見渡すことができる。内露地は茶室に西面し,外露地とは南北に木戸口を備えた四ツ目垣で仕切られ,中央付近に蹲踞が設けられている。『都林泉名勝図会』に描かれ,市街への広い眺望と市中の山居といった風趣を併せ持つ,藤村庸軒ゆかりの茶室に伴う露地として貴重である。
西翁院露地

白沙村荘庭園(はくさそんそうていえん)

 日本画の巨匠橋本関雪が大正5年以降営んだ邸宅の庭園である。東側部分の園池は,かつて疎水から流水を引き入れており,2棟の茶室を備えている。西側部分は,竹林に羅漢石仏が点在するなど,画伯の豊かな感性に裏打ちされた趣向が感じられる。アトリエとして用いられていた建物,「存古楼」の二階からは,大文字の送り火を望むことができる。また庭園の随所には,優れた石造美術品が配されるなど,橋本画伯の豊かな感性が感じられる貴重な庭園である。

白沙村荘庭園

對龍山荘庭園(たいりゅうさんそうていえん)

 南禅寺の周辺は,明治時代に数多くの別荘が営まれたが,この庭園もそうした庭園の一つである。この地には,当初,薩摩出身の伊集院兼常が屋敷を開いた。その後,市田弥一郎の所有となった明治35~39年(1902-06)にかけ,小川治兵衛の手によって,現在のような姿に改修された。庭園の構成は,主屋の東側に広がり,池を中心とする北側の豪壮な趣の部分と,南側の優美な雰囲気の部分とに分けられる。園路と築山は幾つもに分かれ,東山を借景として複雑な場の構成をとり,構成要素も実に豊かである。明治期における京都の別荘庭園を代表する貴重な庭園である。なお,昭和63年に,国指定名勝とされたため,京都市による指定は解除になった。

對龍山荘庭園

中井家の庭(なかいけのにわ)

 左京区岡崎法勝寺(ほっしょうじ)町に位置する中井家の庭は,元来,明治から大正期にかけて活躍した実業家・四代目中井三郎兵衛(1851-1932)が営んだ隠居所に設けられたものであった。和紙にはじまり,いち早く洋紙の生産に携わって事業を拡大した三郎兵衛は,同町に居然亭(きょぜんてい)(現在は一部だけが残存)と呼ばれる広大な別荘を設けた後,その南東側に「新別荘」と称して隠居所を築造した。それが現在の中井家の屋敷である。邸宅の敷地は,西寄りの中央付近に位置する主屋と土蔵を中核とする。西面に開く表門を軸として反時計回りに,玄関庭,南庭,東庭,露地,稲荷社廻りの庭が配されている。その庭は,迎賓機能を備えた別荘を近傍に置きながら,本格的な茶事を行うことができる構成になっている。園内には,複数の流水口を備えた流れと園池そして築山を備え,建物と見事に調和した瀟洒なつくりとなっている。岡崎・南禅寺界隈は,これまでの文化財指定等や調査の蓄積により,全国の政財界人らが別邸を構えた地域として著名であるが,本件は,京都在住の実業家によって営まれ住居として持続している希少な庭であり,作庭の経緯が明確で保存状態がよく極めて貴重である。
中井家の庭

怡園(いえん)

 怡園は,もともと細川藤孝(幽斎)を始祖とする細川家の十六代細川護立(1883-1970)が造営した京都別邸であり,昭和御大典のあった昭和3年(1928)に着工し,同7年に庭と建物共に竣工したとみられる。庭は,主屋を中核として玄関庭,東庭,西庭,北庭,中庭といった5箇所に大別できる。東庭を主とした庭を手掛けた人物は7代目小川治兵衛(植治)である。建物は,玄関棟,茶室を伴う2階建主屋,洋室棟,土蔵,離れに大別され,それらは中庭を中心としてロの字状の渡り廊下で接続している。旧観を留める主屋等の建築年代,大工は不明である。東山近傍を背景に築山と流れ,園路そして植栽樹木を巧みに配する洗練された形態を良好に持続してきた怡園は,岡崎・南禅寺界隈の庭園群を代表するものの一つである。それを特徴付けるのは,近代を席巻した数寄者とは異なるかたちで文化芸術への貢献を果たした細川護立が築造した庭であること,そして大正末期以降の景気の後退により,結果として優れた庭を有する大規模な邸宅の新設が怡園をもって終焉したことであり,岡崎・南禅寺界隈の庭園群の歴史,植治の最晩年の作風を知るうえで重要である。

怡園

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