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上京区の史蹟百選/聚楽第址碑

ページ番号12711

2008年10月21日

Eエリア
聚楽第址
聚楽第址碑

 豊臣秀吉が自らの権力を誇示するために造営した聚楽第は,中立売通裏門角に立っている「聚楽第址」の石標と町名に残っています。天正14年(1586)2月に着工し,翌年9月に竣工します。天正16年4月には後陽成天皇の行幸を仰ぎ,諸侯に忠誠を誓わせました。その後,養子秀次が住みますが,文禄4年(1595)秀次が謀反の疑いで追放されたあと,秀吉は破却を命じます。
 徹底した破却によって全貌を知ることは不可能で,その範囲もまだ明らかではありません。東は大宮,西は浄福寺または千本,北は一条,南は下立売というのが一般的な説ですが一条通大宮西入の鏡石町の北方に古い石垣があって聚楽第のものではないかとの説もあります。智恵光院通出水下るの松林寺境内の低地も堀跡と考えられています。
 平成4年には中立売通大宮下るの西陣公共職業安定所の改築にあたって,その地下から聚楽第東堀の遺構が発見されました。地表下80センチ位までは近現代の盛土で,その下20~60センチは江戸時代の礫混じりの粘土層がありました。そのまた下に人為的に埋められた大きな堀が発見され,西から東下がりに埋められた土の層が現地表面下5.3メートルの平坦面まで重なりあっていました。その中から600点という大量の金箔瓦が発見されましたが完形品はなく,明らかに聚楽第破却で不用になった瓦を埋め込んだことがわかります。この調査によって東堀は確認された幅15メートルの倍以上あったと考えられ,聚楽第研究の大きな手がかりになりました。

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