上京区の史蹟百選/京都御所

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2008年10月21日

Bエリア
京都御所
建礼門より紫宸殿を望む
 寺町,丸太町,烏丸,今出川通の石垣に囲まれた京都御苑は,上京区内で最も広い緑地となっています。しかし130年ほど前までは,この一帯は公家屋敷が軒を接した市街地であり,紫宸殿を中心とする儀式の場と皇居であった京都御所,上皇の仙洞御所や皇太后の大宮御所がありました。明治になって公家衆は東京に職を得て転勤したあと,その屋敷は廃墟と化しました。その荒地を見た岩倉具視の一言で,桑畑になるところを免れ,公園化されたのです。周囲の石垣は公園の一環として作られたものです。
 大内裏が廃れるとともに,皇居は里内裏に移ります。つまり,天皇の母方の家を内裏とし,それが南北朝時代になりますと土御門(つちみかど)内裏として固定化します。その位置が今の紫宸殿のところです。やがて宮廷に仕える公家衆の屋敷が周辺に集まり公家屋敷町が構成されて行きます。しかし戦国時代には皇室の経済も極限状態であって宮殿も最小限の建物のみがあったと思われます。戦国時代を統一した織田信長や豊臣秀吉は天皇の権威を利用しながら自らの政権を固めようとして,内裏の造営に力を入れます。これにより江戸時代の内裏の基礎ができあがりました。
 現在の京都御所は安政元年(1854)の火災に遭ったあと復興したもので,天明大火後に裏松固禅の考証によって平安時代にさかのぼれるほどに再現した宮廷の規模を踏襲しました。江戸時代を通じて宮廷の儀式の場として平安時代の様式を受け継ぎながら,無駄なく宮殿の配置が構成されています。
 紫宸殿・清涼殿は平安時代の様式,小御所・御学問所・御常御殿は書院造というように,時代を表徴する御殿が有機的に結ばれています。京都御所は春秋に一般公開されており,殿舎には,かつてその場所で行われた儀式を再現した人形による展示もなされています。
 仙洞御所は建物が幕末に失われたままですが,見事な庭園が残されています。寛永11年(1634)に小堀遠州が奉行となって作庭しました。池泉回遊式で,北苑は巨石を組んだ真の山水,中苑の池泉は行体,南苑は草体に構成されています。
 京都御所・大宮御所・仙洞御所は宮内庁の管埋ですが,周辺の京都御苑は国民公園として環境庁が管埋しています。洋式の公園の中にも九条池や近衛池など旧公家屋敷の名残をとどめる名園が残り,九条池のほとりの拾翠亭は九条家の離れ座敷でしたが,今では茶室として活用されています。
 石垣に挟まれた周囲の九つの門は,いずれも武家風の高麗門で,明治になって今の位置へ移されています。蛤御門や猿が辻など,現在の京都御苑を江戸時代に重ね合わせて見ると,幕末の動乱期の歴史を語ってくれます。

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