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新島襄と同志社の成立

ページ番号12528

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2010年12月6日

 

 幕末から滞米10年,アーモスト・カレッジで理科学を学び,アンドーヴァー神学校でキリスト教の教義に接し,また,欧米視察中の岩倉使節団の通訳として使節団副使の木戸孝允や文部大輔(文部次官)田中不二麿と知り合う幸運にも恵まれた新島襄が,明治7年(1874)に帰国した。彼は,キリスト教思想を教育の中心に据え,しかも母校・アーモスト大学のようなリベラルなカレッジをつくるという情熱を燃やしていた。
 当時東京には,官立の開成学校(後の東京大学)や,福沢諭吉の慶応義塾など多くの私学もあったため,新島は新しい学校設立の地に関西を選んだ。明治8年(1875)1月,大阪に到着した新島は伝道の傍ら,学校設立の運動を開始した。偶然,木戸孝允の来阪を知った新島は,宿舎に木戸を訪問し,協力を願い出る。木戸は快諾,長州出身の大阪府知事・内海忠勝に新島を紹介し,学校設立の理解と援助を求めた。しかし,内海知事は学校設立には賛同したものの,キリスト教思想に基づく教育には難色を示した。
 そんななか,博覧会を見るため入京した新島は,再び木戸の紹介によって京都府顧問の山本覚馬に面会。山本は元会津藩士であったが,その人格見識を買われ,維新後の京都政財界で重きを成した人物である。当時,産業近代化の投資がかさんだ京都府では,府立学校の財政が悪化。特に欧学舎は外国人教員の人件費が高く経営難に陥り,外国人教員は解雇し府立中学に吸収するという有様で,私立の英学校が求められていた矢先であった。キリスト教の理解者でもあった山本は,新島の計画に賛同し,用地提供も申し出た。新島は京都での学校開設を決め,相国寺門前の山本の所有地,旧薩摩藩邸5,800坪余りを500円で購入した。
 さらに新島は山本と会社を設立し,「私塾開業願」を文部省に提出。社名は,同じ志を持つものの集まり「同志社」とした。新島は,文部次官・田中不二麿と3日間にわたる交渉の末,市民との間でトラブルを起こさぬことを条件に許可を受けた。しかし予想通り,各寺院の僧侶たちによる激しい反対運動が起きた。とりわけ,大本山相国寺の前にキリスト教の学校が出現することは,彼らにとって驚愕すべき出来事だったのである。新島はその対応に苦慮しつつも,寺町通丸太町上ルの自らの借家(現在の新島会館)を仮校舎にして開校を決め,明治8年(1875)11月,「官許同志社英学校」が開校した。
 教師2名,生徒8名という小規模なスタートであったが,明治9年(1876),相国寺門前に新校舎が出来上がるとともに,生徒数も増加。女学校,医学校,神学校,法学校の設立なども計画されるようになる。しかし,新島は「国家百年の大計のため私立大学を設立することこそが,生徒独自の能力を十二分に発揮させ,自治独立の人民を育成することになる」と,同21年,「同志社大学設立の旨意」を発表。これが京都日出新聞社社主の濱岡光哲の心を動かし,京阪神の新聞社8社の共同社告として掲載されるとともに,東京でも大々的に報道され,激励や支援が寄せられた。かくして新島襄の高邁な思想と不屈の努力,多くの人々の協力によって同志社は設立されたのである。

 

新島 襄

新島 襄(同志社大学提供)

山本覚馬

山本覚馬(同志社大学提供)


新島旧宅

新島旧宅(現新島会館,同志社大学提供)

同志社最初の校舎

同志社最初の校舎
(明治9年,同志社大学提供)

同志社英学校の初期の生徒

同志社英学校の初期の生徒
(明治10年頃,同志社大学提供)