市街電車の開設
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2010年12月6日
明治3年(1870),東海道線の鉄道敷設工事が開始された。同5年の東京新橋~横浜間に続いて,順次路線は延長され,同22年に東京と神戸を結ぶ東海道線全線が開通した。一方,同14年(1881)に設立された民間企業「日本鉄道会社」の成功は,民間資本による鉄道建設に拍車をかける。また,都市人口の増大と都市域の拡大は,市街地における大量輸送機関として鉄道事業開設を促すようになった。愛知,大阪,奈良などでも市街電車計画がブームとなり,電気鉄道敷設の出願が相次ぐ。
京都でも,平安遷都千百年記念祭の成功や街の活性化のため,市街電車の実現が強く望まれた。既に東海道線が全通していたが鉄道運賃は高く,京都~大阪間の人間や物資の移動は淀川汽船に頼っており,大阪・八軒屋から伏見へ着いた物資は,高瀬舟か牛馬,人力で市内へ運ばれていたのである。明治25年(1892),京都の財界人らが中心となり,電気鉄道事業の申請が提出された。当時,鉄道とは蒸気機関車のことであったが,京都には琵琶湖疏水による水力発電という画期的な設備があったのである。同26年,申請は受理され,翌年,資本金30万円で「京都電気鉄道株式会社」(京電)が設立され,初代社長に高木文平が,役員には大澤善助,濱岡光哲などが就任,社屋も二条通室町東入ルに設置された。
同社は先ず,博覧会場である岡崎へ見物客を運ぶ路線の軌道敷設を計画するが,京都には観光や信仰による入洛者が多く,博覧会後も乗客確保の見込みはあった。また,京都の街は都大路が整然と区画され,軌道敷設の条件も整っていた。第1期工事として,伏見町油掛通から七条ステーションまでの6.7キロメートルで軌道設置が進められた。並行して車体製作も行われ,動力は米国のG・E社から15馬力のモーター6台を,また車台はデッカー社から同数を購入,車体は東京芝の三吉製作所に発注された。
こうして明治28年(1895)2月1日,数十発の花火を合図に日本最初の市街電車が走り出した。当日は雨にも拘らず,乗客が長蛇の列を作り,2台の電車が伏見・京都間を4往復。沿道には国旗がはためき,多くの見物客が詰めかけたという。この伏見線の料金は,1区間2銭,全線で6銭,淀川汽船との連絡券もあり,京都七条ステーションから大阪・八軒屋までが13銭であった。当時の人力車料金より,電車のほうが幾分安かったようである。
同年4月には,博覧会開催に合わせて木屋町線も開通。木屋町線は,七条ステーションから七条通を東に走り,高瀬川沿いに北上,木屋町二条で右折し,冷泉通から疏水に沿って博覧会場の慶流橋を経由,南禅寺前,蹴上に至る,博覧会場行の路線であった。電車が走行するには,両側に家がある場合は7.3メートルの道幅が必要で,家が片側だけなら5.5メートルで事足りたため,初期の路線は川沿いに敷設されたようである。木屋町線に続いて,7月には木屋町二条から寺町二条,寺町丸太町に至る路線が,また8月から9月にかけては,寺町丸太町から烏丸丸太町,堀川中立売に至る路線が開通した。さらに,同33年には,2年後の北野神社千年祭を見込んで,堀川中立売から北野までの北野線の営業を始めた。
電車の速度は,時速9.6キロ程度と駆け足程度であったが,客席にビロードが張られ,5個の電灯まで点いていた。一般家庭にはほとんど電灯が普及していなかった当時,白色に輝く車内灯の豪華さに人々の驚きはひとしおであったろう。ただ,運転台はむき出しで,雨の日や木枯らしの吹く冬などは運転手泣かせだったという。また,非力なモーターはオーバーヒートしやすく,真夏には作業員が団扇で扇いだという笑い話もある。「運転手」の呼び名はこの京電で生れ,チンチン電車という愛称は発車の合図に車掌が鈴を2回鳴らしたことによるという。路線延長に伴い,事故も起きるようになった。同28年には,深草竹田街道の踏み切りで京電と奈良鉄道会社の電車が衝突,死者3人,重軽傷者十数人が出る惨事となった。人力車夫との間のトラブルも多かったようである。
また,疏水の水藻刈り作業で毎月2日間,蹴上水力発電所からの送電が停まり,電車も運休せざるを得なかった。また,蹴上発電所は天候悪化や故障による送電停止が頻発したため,京電は同32年(1899),東九条に出力75キロワットの火力発電所を建設。4年後には蹴上発電所からの電力購入を打ち切った。
ともあれ,全国に先駆けて京都の街を電車が走ったことは注目に値する。沿線は賑わい,上京区においては北野神社を中心とする中立売通,千本通,大宮通といった西陣界隈が面目を一新したのである。
寺町通を南行する(寺町荒神口付近)
ステップに電車告知人(先走りの少年)
がいる(堀川中立売付近)
堀川中立売の鉄橋を渡る
(明治34年頃)