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京都市上京区

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学問と医療の街・上京

ページ番号12496

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2010年12月6日

 

 上京は,学問の世界でも多くの人材を生んだ。文政5年の『平安人物誌』では,京儒者にあげられた72名のうち半数近くがこの地で塾を開いていたという。
 元和4年(1618),京都の鍼医の家に生まれた山崎闇斎は,妙心寺で剃髪し,土佐の吸江寺など仏門の世界に生きるが,25歳の時,儒家となることを決意,京都に戻って還俗した。明暦元年(1655),闇斎は下立売橋西の北福大明神町で初めて講席を開いた。実践的な彼の学問は,6,000人もの門弟を集め,崎門学派と呼ばれた。下御霊神社の神主・出雲路信直も門人であったことから,末社として垂加社が営まれ,顕彰碑が立てられている。
 伊藤仁斎は寛永4年(1627)堀川勘解由小路(下立売通)上ルの鶴屋七右衛門の長子として生まれた。家業は不詳だが,上層町人であったことは確かである。10代から儒学を志し,29歳の時,病を機に別宅に引きこもる。そして「仁説」を著して仁斎と号し,36歳で堀川通下立売上ルに学塾「古義堂」を開いた。仁斎の門人一派・堀川学派は1,000人近くいたといい,それぞれ京都で子弟を教授したり,医家を営んだり,諸藩に仕官した。5人の息子も皆学者となり,長男の東涯が跡を継いだ。仁斎の死後も古義堂は衰えず,明治まで続いた。
 新町通中立売下ルに学舎・啓廸院を開いた曲直瀬道三は,永正4年(1507),京都柳原の生まれである。23歳の時,関東に移り,田代三喜に師事して李・朱医学を学んだ。天文4年(1535),京都に戻って医家となると,たちまち名声は広まり,翌年開いた啓廸院には800人(一説には3,000人)の門弟が集まるほどになる。道三の著述は5十数種を数えるが,代表的なのが『啓廸集』8巻(1574年刊)である。道三は,中国医学に独自の経験を加え,臨機応変に運用。彼によって,医学の日本化が行われたといってよい。道三流医学は後世派と呼ばれ,啓廸院からは,秦宗巴,施薬院全宗,曲直瀬玄朔・正琳・正純などが輩出。後世派は江戸幕府の朱子学重視政策もあって,幕末まで日本医学の主流をなした。
 江戸時代の内裏図には,烏丸通中立売御門北側に施薬院という屋敷が描かれている。当時,ここには院使の施薬院三雲氏が住み,市民に無料で薬物供与などを行っていた。施薬院とは今の国立病院の起源とされるもので,天平2年(730),皇后宮職に設置された。施薬院の長官が院使で,康平3年(1060)の丹波雅忠以降,代々丹波氏が世襲。戦国の世には機能していなかったが,秀吉が復興を決め,曲直瀬道三門下の施薬院全宗を院使に命じた。全宗没後も養子・秀隆などが代々幕府の信任を受けた。明治元年(1868)には,典薬院頭・錦小路頼言が官許を得て,施薬院三雲宗順邸に病院を開設した。三雲家の墓は今出川寺町上ルの十念寺に今も残る。
 天明2年(1782),現在の室町出水上ルに,学舎・医学院を開設した尚薬法印畑黄山は,京都の安藤家に生まれ畑柳景の養子となった人である。医学院は,講堂や客殿,書室などを備えた立派なものであったといい,今,そこには京都YWCAが建つ。医学院には連日多数の患者が訪れ,盛況を呈したが,天明8年(1788)の「天明の大火」で焼失。黄山の墓は下京区松原通大宮西2丁目南側の中堂寺にある。
 天神通を仁和寺街道から二筋下がった西側あたりに,婦人薬「蘇命散」,胃腸薬「たくま」の看板を下げた奥渓家の長屋門がある。豊後竹田領に生まれたという奥渓家初代の中庵(本姓吉弘氏)は,京都で曲直瀬玄朔に医学を学び,江戸に下るが,東福門院の入内に伴って侍医として再び上洛,一条烏丸に屋敷を構えた。現在の奥渓家は当時の下屋敷である。中庵は正徳2年(1712)に没したが,2代目から8代目までが現在地で医院を開業。4代目からは仁和寺の侍医も務めている。奥渓家には,曲直瀬玄朔の中庵宛ての書簡など古文書類が多く残されているが,最大の歴史的価値はその家屋にある。建造物が残された医学史跡は珍しく,奥渓家の長屋門は京都市の有形文化財に指定されている。

 

「古義堂」伊藤仁斎邸

「古義堂」伊藤仁斎邸

「啓廸院」のあった新町中立売下ル付近

「啓廸院」のあった新町中立売下ル付近

山崎闇斎肖像画(出雲路家蔵)

山崎闇斎肖像画(出雲路家蔵)

「医学院」があった現京都YWCA

「医学院」があった現京都YWCA

奥渓家

奥渓家