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京都市上京区

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平安京の創建

ページ番号12381

2010年12月6日

 

 加茂氏,秦氏,出雲氏,八坂氏,土師氏などの先住民によって治められていた「やましろの国」は,延暦13年(794)の平安京造営で,様相を一変した。盆地の北を東西に貫く古道が一条大路となり,その北は近郊で,南が京内となった。京内は朱雀大路で東西に2分され,その北部が宮域(大内裏域)に充てられた。宮域の南部の一部は現在中京区に属するが,天皇の居所である内裏をはじめ諸官庁や重要機関など,国家の中枢機関のほとんどが今の上京区内に集中した。
 また,上京区の南部東半分は京域で,一条大路,土御門大路,近衛大路,中御門大路が東西に走り,それらと直交する西洞院大路,東洞院大路,東京極大路が南北に貫き,その間の小路を合わせて,碁盤の目状に土地区画された。この京域のうち,大内裏の東には,修理職とか獄所など,その使用目的の上から大内裏の外に設けられた,いわば京中官衙の他,地方からの課役民たちが住む諸司厨町(しょしくりやまち)や貴族の邸宅が混在していた。現在の上京区を平安時代に当て嵌めると,そのほとんどが内裏,官庁,厨町,貴族の邸宅で占められていたのである。
 しかし,10世紀を過ぎる頃から,京域外の一条大路以北が徐々に開発され,都市域が北へと拡大していった。その結果,今の上京区の区域が,人々の生活の上で纏まりのある生活空間へと発展していったのである。市民生活の発展に伴い,神社の祭礼も盛んになった。賀茂神社の賀茂祭では,その行路である一条大路に貴族用の桟敷ばかりか,一般市民用の「町桟敷」までが出現する有様だった。市民の祭礼であった御霊会も上御霊神社,下御霊神社を中心に盛んに行われた。
 このように市民生活が活性化する一方,律令国家の権力は次第に衰退していった。それとともに内裏は荒廃し,12世紀になると内裏一帯は野原や人々の行き交う通路となってしまった。元久元年(1204),大内裏が再建されたが,この時すでに,関東には鎌倉幕府が成立し,朝廷の威信は衰退の一途を辿る。安貞元年(1227)には大火災が発生し,遷都以来一度も火難にあうことのなかった殿舎を含め大内裏のすべてが焼失してしまった。以来,ついに内裏が再建されることはなかったのである。そこで大内裏のあとは内野と呼ばれた。

 

平安京の条坊図

平安京の条坊

拡大図