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京都市上京区

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上京区の成立

ページ番号12280

2010年12月6日

 

 平安京は,中国の洛陽城や長安城を模して建設された。しかし,その後,長安城になぞらえた右京が早くに衰退,洛陽城になぞらえた左京のみが人口も増えて発展したため,洛陽が平安京の代名詞となった。京都が「京洛」と呼ばれ,「上洛」などと言うようになったのは,そういう事情による。
 また,京都の町を南北に分けた「上辺(かみわたり)」「下辺(しもわたり)」という表現は,平安時代末期頃から使われるようになり,中世には「上町(かみのまち)」「下町(しものまち)」,あるいは「上京」「下京」と呼ばれるようになった。当時の区画では,大内裏(宮域)の南辺を東西に通ずる二条通を境として上(北),下(南)両京に分けられたようである。この頃の上京は,中心に御所と室町幕府の「花の御所」を擁し,北野天満宮,相国寺などの大社名刹,そして,それらの需要を満たす多くの商・手工業者が集まって町を形成していた。「応仁の乱」後には機業地としての西陣が誕生し,上京の政治的,生産的な性格が定まった。
 明治以降の行政区画としての上京区,下京区の2区制も,古来の上京の名称や歴史的伝統を基礎としていたが,都市化が進むにつれて近郊を含んで膨張したため,その区域は次第に分割され,今日の上京区という行政単位が生まれるようになったのである。

平安京と上京区

平安京と上京区

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