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京都市上京区

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平安建都千百年事業

ページ番号12551

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2010年12月6日

 

 明治25年(1892),桓武天皇の事跡を調査するため入洛した田口卯吉は,京都商業会議所の中村栄助副会頭に会見。同28年が平安遷都千百年にあたり,「平安遷都千百年祭」を催すべき旨を提案した。提案を受けた中村は,ただちに碓井小三郎をはじめとする実業家協会の会員に諮り,賛同を得る。協会は同25年5月,記念祭とそれに伴うイベントとして第4回内国勧業博覧会の京都誘致を建議し,京都市参事会に提出。市会においても参事会から提出された記念祭挙行の議案が可決された。
 市会は初代市長・内貴甚三郎を委員長とする委員会を設け,計画実現をめざす。東京でも,明治25年11月,公爵・近衛篤麿が会長となって「平安遷都記念協賛会」を設立,全国規模で役員・会員を集め,財政面での協力体制ができ上がった。翌年には,京都府も加わり,平安神社創建のプランを提出する。これに対し協賛会は,桓武天皇を祀る平安神社とその神殿としての大極殿の復元を提案。京都府は,当初,平安朝本来の場所で朝堂院全体の復元を計画したが,用地買収や資金などの問題から,岡崎の地に記念モニュメントとして大極殿と応天門だけを8分ノ5規模で復元することになった。設計は伊東忠太と木子清敬が行い,同26年(1893)に起工,28年2月に竣工した。27年2月には,協賛会が平安神社創立の許可を取得し,28年3月15日に「官幣大社平安神宮」として鎮座祭が執り行われた。
 一方,内国勧業博覧会開催事業も推進された。この博覧会は,第3回まで東京で開催されていたが,勧業の趣旨に沿って関西での開催も決定。京都と大阪が熾烈な誘致合戦を展開した。その結果,第4回は京都市,第5回は大阪市での開催が決定。明治28年(1895),上京区岡崎町で勧業博を開く旨の勅令が公布された。当時の岡崎一帯は,野菜畑や雑木林が混在する土地で,開催が決定するや,京都市は用地買収など準備に取り掛かる。会場は,疏水に架かる慶流橋の正面に決定され,急ピッチで工事が進められ,開催前年の8月にほぼ完成した。
 こうして同年4月1日,第4回内国勧業博覧会が開会された。工業館は面積4200坪という広さで,回の字形の建物の中には11万点余りの出品物が並び,その中央を平安神宮に通じる大通路が横切っていた。付属する農林館や機械館,水産館,動物館などにも出品物が溢れたが,美術館では約5000点の作品が観客を魅了した。中でも黒田清輝作の「朝妝」は,日本最初の裸体画とあって大センセーションを巻き起こし,作品の前には連日黒山の人だかりがあったという。7月31日までの会期中,113万人もの観客が博覧会を訪れた。
 さらに,同年10月22日から3日間,「遷都千百年記念祭典」が盛大に繰り広げられた。同月25日には,時代行列なるものも街中を練り歩いた。これが今の「時代祭」の起源である。僅か2カ月間で企画が練られ,9月に道具や衣装が調達され,行列の順序などが決定されたという。河原町御池の市議会堂を出発した行列は,河原町二条を烏丸に抜け,四条まで南下,縄手通から三条を経由して平安神宮へ向かったが,沿道には多くの市民や観光客が詰め掛け,街中が熱気に溢れた。

 

応天門から見た平安神宮

応天門から見た平安神宮

「第4回内国勧業博覧会」の図

「第4回内国勧業博覧会」の図
(大塚隆氏蔵)

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