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中川小十郎と立命館の成立

ページ番号12532

2010年12月6日

 

 明治19年(1886),大学が正式な学制となり,東京大学は帝国大学と改称。大阪中学校も大学分校として第三高等中学校と改称,京都移転が決定した。この京都への誘致を熱望し,行政を動かしたのは京都市民であり,その実現に奔走したのが当時の府知事・北垣国道であった。用地として吉田村の49,000坪を買い上げるなど,総移転費用16万2500円の内,10万円を京都府が負担するという熱心さであった。同22年,第三高等中学校は,教員23名,生徒数332名で正式に開校。同27年には,中学が削られ正式に第三高等学校となり,京都の誇りとして市民の中に定着する。
 さらに明治29年(1896),第2の帝国大学が京都に設立されることになった。当時の文部大臣・西園寺公望は,御所内の私邸に私塾「立命館」を開いたこともあり,京都との繋がりも深かった。彼は,官吏養成の場であった東京帝大に対し,政治にとらわれない自由な学問の場を京都につくろうと考えたようである。政府の決定を受けた京都府は,東大路の一条通の南側から近衛通にかけての土地(現在の教養学部所在地)を寄贈し,医科大学用地として現在の医学部及び病院所在地も買収した。こうして開設された京都帝大は,分科大学として理工科,法科,医科,文科の4科を持ち,初代総長には文部省専門学務局長の木下広次が就任。事務局長にあたる「書記官」には西園寺の秘書官・中川小十郎が就任した。
 丹波の馬路村(亀岡市馬路)出身の中川小十郎は,戊辰戦争の際,実父らが山陰道鎮撫使であった西園寺に従い功績を上げた縁から,その後,西園寺の秘書官に取り立てられ,官界だけでなく,合資会社加島銀行理事,真宗生命保険株式会社(朝日生命保険株式会社)筆頭取締役を務めるなど,実業界でも活躍した。
 西園寺の意を受けた中川は,権力に屈しない自由な学風を京都帝大に定着させた。しかし,より多くの青年に政治,法律,経済に関する高等教育を施すためには,私学も必要であると痛感した中川は,自ら行動を起こし,明治33年(1900),「私立京都法政学校」を開設した。東三本木の料亭「清輝楼」を仮校舎に開校したこの学校には,305名もの入学希望者が集まり,教授には,京都帝大の法科の教授陣が1時間2円の報酬で協力したという。学長には法科大学の富井政章教授,学監には中川が就任した。
 明治34年(1901),広小路通寺町東入ルに新校舎を建設して移転した「京都法政学校」は,順調に発展,同37年,専門学校令改正に伴い「私立京都法政大学」に名称を変更,生徒数500名と京都最大の規模を誇る私立学校に発展。その後,大正2年(1913)には,西園寺の旧私塾「立命館」の名称を譲り受け,「私立立命館大学」と改称。上京に同志社と立命館というふたつの私立大学が誕生したのである。明治35年(1902)における全国の私立学校数は51,そのうち東京が19,大阪が8,京都が13であるから,京都の行政や市民がいかに教育文化に力を入れていたかがわかる。

 

中川小十郎の写真

中川小十郎(立命館大学提供)

清輝楼の写真

清輝楼(立命館大学提供)

大正2年頃の立命館の写真

大正2年頃の立命館(立命館大学提供)