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京都市上京区

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徳川和子の入内

ページ番号12455

2010年12月6日

 

 慶長5年(1600),関ヶ原の合戦によって徳川政権が誕生した。当時の京都は経済的な先進地域であり,同時に御所,寺社など特殊な権威を誇る地域であったため,徳川幕府もこの地の掌握に苦心した。御所および公家の掌握には,「禁中並に公家諸法度」という法令を出す一方,秀吉が行った懐柔策も踏襲し巧妙な操縦法を用いた。これをほぼ全権委任されたのが京都所司代で,その初代には切れ者・板倉勝重が任じられた。所司代屋敷は二条城の北側にあったから,引き続き上京は権威と権力の場を提供したことになる。
 慶長10年代になると,所司代は公家の集住化を進め,摂家を筆頭に公家屋敷の御所周辺への屋敷替えを行った。そこでこれを公家町という。御所も拡張され,禁裏御所に加え,仙洞御所と女院御所が造営された。公家町の形成には,その中に幕府の与力や同心衆を住まわせ,禁裏御所や公家衆の動向を監視する目的もあった。烏丸以東,丸太町以北の一帯は,京都の町の特別な街区を形成するようになった。
 幕府は表面上「公武之和」を唱えていたため,再三,将軍が上洛し,天皇はじめ公家衆を供応した。しかし,この京都と幕府の間を繋ぎとめるため献身的に努めたのは東福門院(徳川和子)であった。徳川家康の孫・徳川和子の後水尾天皇への入内は,家康没後の元和6年(1620)に実現。5月8日,江戸を出発した徳川和子の行列は,20日間を費やして東海道を上り,二条城に到着した。その間,朝廷でも関白・九条忠栄や鷹司信房らに命じ,女御の宣旨についての内儀を尽くし,和子を従三位に叙し,入内の日を待つばかりとなっていた。
 6月18日,二条城を出た徳川和子の行列は北へ進み,中立売の橋を渡って御所に向かった。当時,この橋を「戻橋」と称していたが,この日のために「万年橋」と名を変えたと伝えられる。「戻橋」は,『源平盛衰記』に一条堀川の橋と伝えられ,現在もそう伝承されているが,『山城名勝志』には「元土御門堀川橋也,今一条堀川橋を戻橋と言う」とあり,土御門は現在の上長者町であるから,必ずしも位置は一定しない。ただ,少なくともこの当時は中立売の橋を戻橋と呼んでいたのは確かなようである。
 新女御・和子に対する女官たちの眼は冷ややかで,公武の習慣の違いも14歳の乙女の心を惑わしたことだろう。しかし,その和子の心を慰めたのは天皇の生母・中和門院であった。彼女は陰になり日向になって和子を庇い,優しい姑の思いやりを示したので,生来素直な心を持った和子は宮廷の生活にも馴染み,和やかな日々を過ごすようになった。もとは政略結婚であったが,和子の誠意と中和門院の賢明な指導が,中宮として立派に幕府と朝廷の間を繋ぎとめさせたのである。入内後,和子は一度も江戸に帰ることなく,宮廷人としての生涯を貫いた。
 上京は,公武の政庁があったことから,堀川通より西の内野,東堀川に沿った地域などに諸大名の京屋敷が多かった。将軍上洛による供奉への備えや,西陣織などの京都産品の買入,あるいは金融要請がその役割だったと思われ,その動向は政治情勢によって大きく変わった。周辺に住む人々にも多大の影響を与えたが,それは政治の顔を持つ上京の宿命であったといえる。

 

京都所司代跡(元待賢小学校)

京都所司代跡─待賢小学校内─
(猪熊通丸太町下ル)

板倉勝重,重宗屋敷(ひまわり幼稚園内)

板倉勝重・重宗屋敷
─ひまわり幼稚園内─(堀川通竹屋町西)

天明年間の御所を中心とした公家町

天明年間の御所を中心とした公家町

拡大図