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京都市上京区

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秀吉の都市改造

ページ番号12443

2010年12月6日

 

 天正10年(1582)6月,織田信長が明智光秀の謀反で本能寺に倒れ,豊臣秀吉が天下の実権を握った。
 同14年(1586),秀吉は平安京の大内裏跡である内野を利用して「聚楽第(じゅらくてい)」の建設に着手した。そこは御所の西,僅か1キロメートル余りの場所であったが,それも計算の上であったろう。内野には農家や町家も点在し,町化が進みつつあったが,彼はこの地域を含め市街化 された二条までの一帯を縄打ちした。
 工事は諸大名に命じられ,10万余の人夫によって進められた。深さ5.4メートル,幅36メートル,全長1800メートルに及ぶ堀も瞬く間に完成し,諸大名の邸宅も順次竣工,千利休も葭屋町に屋敷を与えられた。そして着工から1年後には金箔瓦に覆われた聚楽第が,偉容を現した。周辺には武家屋敷,公家屋敷,町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈していた。同15年(1587)9月,聚楽第に移った秀吉は,翌年4月,室町幕府当時の先例にしたがって,後陽成天皇,正親町上皇らを新装なった聚楽第に招く「聚楽行幸」を実現した。それは,権力者としての地位を内外にしめす絶好の機会であった。
 また,同15年10月,秀吉は北野の森で空前絶後の大茶会を催した。京の街の高札場に出した触書で,彼は一般民衆にも大茶会への参加を呼び掛けている。それは,茶の湯が貴族や武家など特定の数奇者だけの楽しみではないという考えからでもあろうが,反面,長年にわたって収集した名物道具の展覧による権勢誇示の意図もあったと思われる。北野社の拝殿の周囲には秀吉をはじめ,利休・津田宗及・今井宗久ら茶頭の4茶席が設けられ,参加者はクジでそれぞれの茶席で茶に預っている。北野の森には1000を超す茶席が並び,公家や武士,町人などの数奇者がおおぜい集まったという。
 御所の修築も行われた。御所修築は信長時代にもあったが,秀吉のそれは新造ともいうべき本格的なもので,同17年(1589)から約2年の歳月をかけた結果,御所は面目を一新。聚楽第と御所の偉容は,上京の景観を完全に変えた。
 秀吉は都市改造も断行した。同19年(1591),洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じたのである。お土居は,東は鴨川,北は鷹峰,西は紙屋川,南は九条に至る延長22.5キロメートル,高さ約4~5メートルの土塁で,外側には幅4メートルから18メートルの堀を伴った。この土塁は,外敵侵入を阻止する軍事的意味合いと同時に,鴨川など河川の氾濫から市街地を守る役割を持っていた。秀吉は,かつての平安京をイメージしながらも,京都の地形並びに治水対策を考えた綿密な計画のもとに都市改造を行ったのである。工事は5カ月で完成し,京都は聚楽第を中心に巨大な城塞都市に変貌した。
 お土居の造成に前後して寺院街の建設も行われた。各寺院を強制移転させ,市街地の東側には「寺町」を,北部には「寺之内」を形成したのである。この寺院街の造成もまた,上京に新たな景観を生み出した。また,市街地も四条室町を中心に四分割して,それぞれに特徴を持たせ,条坊制に基づく平安京の町(120メートル四方)を短冊形に改め道路幅も縮小,ほぼ現在の道幅に変更した。改造された京都の街は,平安京のイメージは残すものの,聚楽第と御所を中心とした軍事的性格を持つ城下町的形態となり,平安京の左右対称的な構造は失われた。しかし,これが近世以降の城下町の原形となり,以後,この形式が全国各地に受け継がれたのである。
 この大改造の命令を下した直後の天正19年2月28日,千利休が秀吉により切腹を命じられた。その日,検使として赴いた尼子三郎左衛門ら3名を不審菴に迎え入れた利休は,ともに茶を喫した後,蒔田淡路守の介錯で自刃したという。
 この年12月,秀吉は甥の羽柴秀次に関白職を譲った。翌年,秀次は左大臣にもなり聚楽第に移り住む。しかし,彼は秀吉の傀儡(くぐつ)に過ぎず,その不満が両者の不和を招く。しかも,秀次の関白職継承後,秀吉に実子の秀頼が誕生して事態は悪化。自暴自棄に陥った秀次は,「殺生関白」と呼ばれる粗暴な振る舞いが目立つようになった。秀吉は,文禄4年(1595)7月,秀次の関白並びに左大臣職を剥奪,高野山に追放し,自刃の沙汰を下した。同月28日には聚楽第の破却を命じ,秀次の子女・妻妾などを処断した。かくして,上京に燦然と輝いた聚楽第は完全に取り壊され,その故地は草生い茂る空き地となるのである。
 慶長3年(1598),秀吉が愛息・秀頼の行く末のみを心に抱き伏見城で62年の生涯を閉じると,豊臣政権は瓦解の一途を辿り,やがて徳川の天下が訪れる。
 16世紀後半,「小袖」という単純形式の衣装が流行した。小袖は,素材や意匠の差が身分差を識別する唯一の要素であり,それまでの形による身分の隔たりを狭めたことから大流行。海外からもたらされた製織技術や染色技法ともあいまって,小袖の新鮮な意匠や色彩が日常生活に華やぎと潤いをもたらした。そうした服装品の供給源が西陣であった。当時,西陣機業は21町に及び,京都はいうに及ばず日本を代表する高級織物生産地としての地位を確立していた。

 

「北野大茶湯」石碑

北野天満宮の「北野大茶湯」石碑

太閤井戸

北野天満宮の「太閤井戸」

お土居図

「お土居」に囲まれた京都

拡大図
千利休の像

利休像 長谷川等伯筆