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京都市上京区

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花の御所

ページ番号12401

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2010年12月6日

 

 鎌倉時代には,上京の一条通を越えた東北部に公家邸が盛んに建築される一方,かつて農村や野原であった土地が開発され,庶民の家々もまた北へ延び始めたのである。鎌倉時代初期には,北は一条から南は二条,東は室町から西は西洞院に火災が集中しており,この地域が人口密集地であったことを物語る。また,暦仁元年(1238),鎌倉幕府は洛中警護のため各所に篝屋(かがりや)を設置したが,現在の上京区でいえば,一条大宮,一条西洞院,一条町,安居院大宮に設置されており,これも付近が人口過密を思わせる。この頃から,この地域が「上町」と呼ばれるようになり,それが「上京」に変化して行く。
 南北朝の争乱を経て室町時代に入ると,上京はその景観や機能が大きく変化する。
 永和3年(1377),3代将軍・足利義満は,柳原,北小路,烏丸,室町に囲まれた場所に「花の御所」を造営した。室町通側を正面としたので「室町殿」「室町御所」とも呼ばれ,南の三条坊門殿と交互に用いられ,8代将軍・義政まで将軍邸となった。一方,明徳3年(1392)の南北両朝の合体にともない,それまで北朝の皇居であった東洞院土御門殿が正式に内裏となり,これが現在の京都御所へと繋がる。こうして公武の政庁が現在の上京区東北部に集まり,上京は再び政治の中心地に復活した。武家屋敷や公家邸がこの近辺に軒を並べ,特に「花の御所」の周辺は一色,細川,畠山などの有力大名が邸宅を構えた。至徳元年(1384)には,七重の塔を持つ相国寺が花の御所の東側に姿を現した。
 一方,上京の西部,北野神社を中心とする地域では商業活動が盛んであった。鎌倉時代以降,大舎人(おおとねり)の織手が中国の唐織にも劣らぬ立派な綾織を生産しており,北野社には「七保」と称する神人の集団があって北野社の庇護の下に麹の独占販売をするなど活発な商業活動を行っていた。この地域では町々の出資による自衛組織までができるほどの繁栄ぶりであった。
 同じ上京でも,東部は公武の政庁街として,西部は商工業の街として,まったく異なった都市機能を持ったのである。

 

 

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