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信長の上京焼討ち

ページ番号12425

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2010年12月6日

 

 応仁の乱後,上京は新たな展開を迎える。乱の最中,堺や奈良,近江などに避難していた大舎人の織手が,西軍の陣地があった西陣地区に帰って座の復活に努め,やがて西陣の機業地へと発展。町家も復興した。明応9年(1500)の大火で人家1万数千軒が焼失したという記録からも,その復興ぶりはうかがえる。
 しかし,天文5年(1536)の「天文法華の乱」で,上京は再び大きな打撃を被る。これは比叡山延暦寺による法華宗への弾圧であった。当時,荘園からの年貢で何とか経営されていた延暦寺などの旧仏教系大寺院に対し,新興の法華宗は後藤,本阿弥,茶屋,野本などの有力町衆を中心とする檀家によって運営されていた。京の町は法華題目で溢れ,特に富裕な西陣の新在家の人々はほとんどが法華宗に帰依しており,これが天台をはじめとする旧仏教系宗派の脅威となったのである。延暦寺の弾圧に対して法華宗徒らは町に堀や柵を設けて攻撃に備え,ついに宗教戦争へと発展。多くの法華宗徒が戦死し,上京もその3分の1が焼失した。
 しかし乱後の復興は意外に早く,その後数年で室町上立売に「立売りの町」が形成され,西北部の北野社を中心とした商業地区同様,目覚しい発展を遂げた。当時の室町上立売付近には幕府の制札掲示場も置かれ,大変な賑わいを見せた。京都が大消費都市に成長するにつれ,地方からの物資に依存する度合いが高まり,諸国から多数の商人が流入,活発な商業活動を展開した。
 こうした経済的発展とともに,町衆による娯楽も現れてくる。16世紀に流行した「風流(ふりゅう)踊り」もそのひとつである。これは怨霊鎮めや先祖霊鎮めのため,華麗な装束を身に纏った練り衆が囃子を奏して踊り歩く盆行事であった。永正3年(1506)には細川政元による停止令が出されたが,その後も流行は続いた。文献によれば,上京では上京日々風流,武者小路風流,室町衆風流,立売町踊,六町衆躍,一条室町踊,上京中躍などが盛んで,町々では盆の万灯会も出されて賑わった。一方,半職業的な手猿楽もこの頃,上京から生まれている。上京室町の住人で,渋谷太夫と呼ばれた手猿楽師は,後に一座を組織し九州日向地方にまで巡業したほどであった。
 このように,上京は再度の災害に見舞われながらも急速に復興を遂げるが,永禄11年(1568)の織田信長の上洛によりまたも大打撃を被る。当時の上京は,国内絹製品のほとんどを生産する西陣を擁するなど,最も富貴な人々の居住地とされていた。信長は,上洛の翌年,室町勘解由小路(現在の室町下立売付近)に将軍義昭のための新たな邸宅造営に着手し,その協力を上京に課したのである。この新第建築は驚異的な速さで進められ,「武家御所」「公方之御城」などと呼ばれた壮大な邸宅が僅か70日にして完成した。
 信長は,上京の富豪に対する「唐物名物」の強制買い上げ,いわゆる名物狩りも行った。新在家に住む豪商の池上如慶や江村氏,大文字屋,祐乗坊,法王寺,佐野氏などから天下の名物を強制的に出させたのである。しかし,富裕を自認する上京衆は明らかな反信長行動を取った。激怒した信長は,将軍義昭との間の不和を理由に,京中焼打ちという威嚇に出た。上京,下京の住民は信長に銀を贈り焼打ちを逃れようと努めるが,上京のみは聞き入れられず,元亀4年(1573)4月,焼打ちされ,焼失家屋6000~7000軒という被害を受けた。
 当時信長の側にいた耶蘇会宣教師ルイス・フロイスは本国への報告書で「上の都の人は富み且つ傲慢なるが故に,条件を良くしてかえって信長の不快を招き,更に建築に着手せる宮殿の周壁を破壊したることにより,その怒りに触れたり。(中略)上の都の人々は献納したる銀1300枚に少しも頓着せざるを見て,彼らは傲慢なりしが故に心中これを憤りたり。云々」と述べている。まさに,富裕なるが故に自らを過信した上京町衆の敗北であった。同年7月,信長は焼打ちした上京に対して復興命令を出したが,再建には数年を費やしたのである。

 

天文初年の法華宗本山分布図

天文初年の法華宗本山分布

拡大図
風流踊図

風流踊

西陣の家並

西陣の家並