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応仁の大乱

ページ番号12410

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2010年12月6日

 

 嘉吉元年(1441),将軍足利義教が播磨守護赤松満祐(みちすけ)に殺されるという事件(嘉吉の変)がおき,2年後,義教の子,足利義政が僅か9歳で8代将軍となるが,実権は細川,山名,畠山,斯波(しば)などの大名が握っており,政治は混乱した。
 長禄3年(1459)は新春から天候異変が続き,9月は山城,大和に大暴風雨が襲来。京都では鴨川が大氾濫を起こし,無数の溺死者が出るなど大被害をもたらした。水害後には飢饉が訪れた。洛中の飢死者8万余人と言われ,都は屍臭たちこめる一大葬地と化したのである。米の価格は高騰し,各所で徳政をもとめる一揆が激発した。しかし,幕府はこうした事態に何一つ手を打てなかった。
 また,将軍家では相続問題が起こっていた。政治を細川,山名,畠山らの各大名に任せた義政は,隠居して風雅の道に生きることを考えた。正室日野富子との間の嫡子が幼くして死んだため,浄土寺門跡であった弟の義尋(義視)を還俗させ,次期将軍職を約束,その後見に細川勝元を据えた。しかし,翌年,日野富子が男子を出産。この,実子・義尚の誕生で情勢は一変した。
 富子は山名宗全を後見としたので,2大勢力である細川,山名の両派が対立し,幕府を2分して争う結果となったのである。管領家のひとつであった畠山家でも相続問題が起こり,畠山義就は山名を,畠山政長は細川を頼ったため,2大勢力の対立はさらに拡大,険悪化して行った。
 応仁元年(1467)正月7日,山名宗全らの策謀により,管領・畠山政長は失脚。面目を失った政長は,自邸に火を放ち上御霊神社の森に布陣して立て籠る。畠山義就は同月18日早朝,上御霊社の政長陣を奇襲,社殿などが火に覆われ,政長軍は細川邸へと逃れた。この戦いが導火線となり,やがて細川勝元を将とする東軍と山名宗全率いる西軍との戦い――応仁の大乱へと発展,以後11年に及ぶ内戦が京都で繰り広げられた。
 東軍細川勢は花の御所を拠点とし,西軍山名方は宗全邸を本陣としたため,その中間に位置する小川一帯,特に小川寺之内に架かる百々(どど)橋などは激戦場となったようであるが,もちろん戦火はその付近のみにとどまらず,京都の街は一面の焼野原になってしまったのである。
 人々は生命財産を守るため様々な自衛手段を採った。「構(かまえ)」や「堀」などの防御施設の建設もそのひとつである。上京の構は,実相院構,白雲構,柳原構,讃州構,御所東構,山名構,伏見殿構,北小路構,武衛構,御霊構などが諸文献にみえるが,それは,武家の要害的なものと公家や庶民の自衛的なものとに大別できる。上京の随所にこうした構や堀があり,当時の上京は全域が要害化された都市景観を呈していたと思われる。
 戦乱に明け暮れた中世の上京にも,文化に貢献した人々が少なくなかった。それは柳原散所,北畠散所,桜町声聞師,川崎庭者,大黒声聞師,御霊社東西散所,御所東声聞師などと呼ばれる集団で,公武貴紳の雑役をしながら当時の芸能界や文化に大きな足跡を残した。新年を寿ぐ宮中での千秋万歳を演じたのは大黒声聞師や北畠散所,後には柳原散所も加わり,交互に宮中に伺候した。また,作庭に従事した川崎庭者は,しばしば禁中や山科家に出入りしたと伝えられる。

 

「応仁の乱」勃発の地,上御霊神社

「応仁の乱」勃発の地,上御霊神社

山名宗全邸跡(堀川通上立売下ル西入山名町)

山名宗全邸趾
(堀川通上立売下ル西入山名町)

百々橋址(寺之内通小川通)

百々橋趾(寺之内通小川通)