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京都市上京区

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上京区の特色

ページ番号12338

2010年12月6日

 

 現在の上京区は,東は鴨川,西は紙屋川,北は鞍馬口通,南は丸太町によって区切られた長方形の地域である。交差する一条通と堀川によって,大きく四つの地域に分割されているが,中世,近世の上京もこうした地域区分の上に歴史的な展開をしてきた。東北地区には中世以来武家屋敷や公家の下屋敷が多く,東南地区は御所と公家屋敷を擁する行政地区としての性格を持っていた。また,西ノ京や大将軍といった庶民の生活地域を持つ西南地区,西陣と呼ばれる代表的な伝統産業地域のある西北地区など,各地域が特徴を持って形成されてきたのである。
 上京区のもう一つの特色は,道路名や町名としての「辻子(図子)」(ずし)が多いことだ。上京区の中でも一条以北,智恵光院以東,烏丸以西に辻子の集中地域があり,京都市内約100例のうち実に50例がここに集中している。一般的には,町通りから派生する横通りに対して辻子の名称が付けられたようであるが,それは,町通りになる前段階の道を意味する。
 平安時代,京都の北端の道路は一条通で,それより北は人家も疎らな未開発地域であった。しかし,中世になって都市化が進み,烏丸通や室町通,新町,油小路,堀川,大宮などの南北の道路が北へ延びると,それらの道路の両側に家が建ち並び,町並みが成立する。例えば室町通では,一条以北に,南から,小島町,福長町,北大路室町,築山南半町,築山北半町,裏築地町,室町頭町といった「縦町」ができた。この南北の道路を連絡するためにつけられた東西の横道が,辻子だったのである。従って,辻子は南北方向の道路のように直線ではなく,不規則になっている。こうして通じた東西の辻子にも両側に家々が建ち並んで,町並みが成立し町通りへと発展。旧来の辻子名を町名に残すようになった。つまり,辻子(図子)名の集積は,そこが元の平安京外であったことに関係するのである。
 また,上京区を代表するものが御所と西陣だとするなら,それはまさに京都の表徴である。上京は京都の町の典型であり,日本文化の原点であると言っても過言ではない。そこには,大社名刹は言うに及ばず,三千家の家元が茶の湯の伝統を伝え,鴨川のほとりには頼山陽が「山紫水明処」を構えていた。また,元誓願寺通小川東入ルには狩野元信が住んだという狩野辻子,油小路今出川上ルには本阿弥光悦の生家があったという本阿弥辻子など,文化・芸術の薫り高い旧跡が各所に点在する。
 中でも上京の象徴となったのは,応永6年(1399),足利義満が父・義詮の供養のために建立した相国寺の七重の大塔だろう。その高さは約70メートルもあったという。応永10年(1403),雷火で灰燼に帰し,その後再建されたが,文明2年(1470),再び雷火で焼失,以後再建されることはなかった。「洛中洛外図屏風」の視点は,この相国寺七重大塔からの眺望であったとする説もある。その地には現在も塔之段町という地名が残されている。

 

上京区域における辻子の分布

上京区域における図子の分布

拡大図