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京都市上京区

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琵琶湖疏水事業

ページ番号12545

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2011年11月30日

 

 元来,京都は三方を山に囲まれた盆地であるため交通の便が悪く,特に北陸地方からの交通は至難であった。鴨川をはじめとする河川は水量が少なく,用水や舟運の面でも水利は不十分であった。そこで,3代目の京都府知事・北垣国道は,市民の用水確保,舟運の便宜,水力による交通・産業の動力確保を目的として,琵琶湖疏水計画を立案した。琵琶湖疏水計画は江戸時代から度々立案されてはきたが,余りに巨額の費用と困難を伴うため実行されなかったものである。しかし,北垣知事は京都100年の大計のため,この事業に政治生命を賭けたのであった。
 明治15年(1882),北垣はこの大事業実現をめざし,中央政府各省庁を説得。内務卿・山田顕義をはじめ大蔵,農商務各卿の賛意を得た。さらに北垣は,北海道開拓使時代に面識のあった東京虎の門の工部大学校(東京大学工学部の前身)に大鳥圭介校長を訪ね,相談した。話を聞いた大鳥は,当時,工部大学校学生であった田辺朔郎を呼び寄せ,北垣に紹介した。田辺は執筆中の卒業論文を見せたが,それは何と琵琶湖疏水に関するもので,彼はその内容について澱みなく説明したのである。北垣は,弱冠23歳の工学士・田辺を京都府御用係として招聘,この大土木事業の実現を託した。
 明治18年(1885)に着工された疏水建設は,琵琶湖湖畔から山科経由で鴨川に至る全長11.1キロメートルの大土木工事であった。三井寺下より藤尾村に通じる2436メートルの第1トンネルは,当時,日本最長といわれ,特に長等山,小関峠は地盤が硬く,湧水の多い地質であったため難工事であった。しかし,田辺は小関峠から竪坑(シャフト)を2本掘り4方向からの掘削という新工法を用いるなどして,これを完成させている。
 琵琶湖疏水の主目的は,水利による運輸,交通,灌漑,飲料水確保,並びに水車動力の開発で,水車動力の開発は産業発展のための最重要課題であった。当初計画でも,落差の大きい蹴上から鹿ケ谷付近に工業用水車を設け,付近一帯を産業・工業地帯とすることが決まっていた。
 ところが,明治21年(1888),上・下京連合区会において疏水の落差を利用した水力発電の動議が川島甚兵衛らから出された。当時わが国に水力発電はなく,世界でもスイス,アメリカで小規模なものがあるに過ぎなかった。田辺も水力発電を考慮はしたものの,技術的な問題等で決断できなかったのである。
 しかし,ちょうどその頃,米国アスペンの水力発電所開業の報が伝わり,連合区会は議員1名と工事主任・田辺朔郎を視察に派遣することを決定。同年,田辺と議員・高木文平が渡米,ホリヨーク,アスペンなど関係都市を視察して,翌年1月,帰京した。田辺はただちに水車動力を廃し,水力発電所建設にかかる。こうして蹴上発電所が建設され,以後の京都市発展の原動力となった。
 明治23年(1890)4月,4年8カ月に及んだ琵琶湖疏水の大事業は,実に125万6000円の巨費をかけ,17名という尊い犠牲の上に,竣工した。着工当時の国家財政が7000万円規模,京都府の総予算が50~60万円であったから,事業の大きさと,これに賭けた北垣知事の執念がうかがえる。

 

北垣国道第3代京都府知事

北垣国道第3代京都府知事
(京都市上下水道局蔵)

田辺朔郎の写真

田辺朔郎(京都市上下水道局蔵)

第1疏水縦断面図

第1疏水縦断面図

拡大図