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幕末動乱と禁門の変

ページ番号12502

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2018年8月15日

 

 19世紀,江戸時代末期になると,封建社会の土台を揺るがす動きが目立ってくる。頻発する飢饉と百姓一揆や打ち壊し。都市への人口流入。農村では,富農層と貧農層の分化が進み,都市の資本が入ってマニュファクチュア経営(分業生産式経営)も生まれる。それは資本主義的経営の原始的形態であり,封建体制が大きく揺れ動いたのである。
 19世紀半ば,幕府が外圧に屈し勅許を得ずに外国との通商条約に調印したことなどをきっかけに,尊皇攘夷運動が活発化する一方,開国論者が佐幕派(幕府を助けることを主義とする一派)となって,両派が対立する。反幕運動を弾圧(安政の大獄)した大老・井伊直弼が,桜田門外で殺害されるという異常事態も起きた。幕府は尊皇をうたい,朝廷権威の利用を企図して皇女・和宮の降嫁による公武合体を行うが,かえって尊皇攘夷派の怒りをあおり,公武合体政策の中心人物・老中安藤信正が坂下門外で襲撃される。安政の大獄以前の尊皇攘夷派は,有力藩の大名や家臣,浪人学者などが中心で,尊皇すなわち倒幕ではなかったが,大獄後は,地方の豪農や豪商なども含めた広範囲から倒幕思想を持つ者が出るようになった。
 薩摩藩や長州藩では,現実の秩序に不満を持つ下級武士を中心に,尊皇攘夷運動が激化していった。薩摩藩主・島津久光は,大兵を率いて上洛,孝明天皇に幕府との協調を訴える一方,自藩の尊攘急進派を弾圧し(寺田屋事件),江戸に下って幕政改革の勅命を伝えるなどした。その結果,京都には会津藩主・松平容保を長とする京都守護職が置かれた。しかし,その結果,会津の家臣と長州や土佐など地方の侍や農民出身者が京都を舞台に血みどろで戦うことになり,諸国から入洛した志士や浪士は,口実を設けては商家に対する焼き討ちや強奪を繰り返したのである。
 長州藩では桂小五郎ら尊攘派が主導権を握り,土佐藩も同様であった。勅命による将軍家茂の入洛で勢いづいた尊攘派は天皇の大和行幸を機に,倒幕挙兵計画を立てる。こうした動きに対して,京都守護職・松平容保は薩摩藩と連携,長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えた。いわば,京都を舞台に朝廷を取り合う形になった両者は,文久3年(1863)8月,長州勢と会津・薩摩勢が御所を舞台に揉み合いとなり,長州藩による御所への威嚇砲撃という事態まで引き起こした。この争いは,三条実美らの尊攘派公卿や宮門警護の長州兵が追放されて,いったんは長州の敗北に終わった。
 しかし,尊攘派も巻き返しを図る中,尊攘派志士が新選組に襲撃される池田屋事件が起き,長州の尊攘急進派が激昂,嵯峨,山崎,伏見など京都周辺に兵を集結させて,朝廷に入洛許可などを求める。朝廷の解兵の命にも応じなかったため,長州追討の断が下された。こうして,元治元年(1864)7月19日,蛤御門の変(禁門の変)が勃発した。京都市街地へ侵入した長州勢が下立売門から御所へ突入,蛤御門付近で会津藩や桑名藩,薩摩藩や新選組などの軍勢と激戦を行ったのである。宮中は大混乱し,「神器を入れたる櫃も縁側に並置せられ」たほどだったという。
 堺町御門付近でも両者の戦闘があり,鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。火は3日間燃え続け,堀川と鴨川の間,一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで,命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであったという。小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが,この時幕府側は,破獄を企てたという理由をでっち上げて尊攘派志士33人を斬首した。
 この大火により実に28,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は,支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,悲しい歴史上の事実である。

 

蛤御門

蛤御門

今なお弾痕をとどめる門柱

今なお弾痕をとどめる門柱

「禁門の変」を報道した一枚瓦版

「禁門の変」を報道した一枚瓦版
(京都市歴史資料館蔵)

拡大図
京都の消失地域を表した地図

京都の消失地域を表した地図
(「甲子兵燹図」より,京都大学附属図書館蔵)

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