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江戸期の豪商と光琳の生涯

ページ番号12481

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2010年12月6日

 

 江戸幕府は京都の大商人の経済力を抑制する政策を取ったため,中世以来の上層町衆の中には衰退の憂き目を見る者も現れた。その混乱に乗じて近江や伊勢,美濃方面の商人たちが京都,なかでも上京に移住し,実権を握るようになった。こうした新興町人たちは大坂や江戸にまで商業圏を拡大。江戸中期頃の記録では,上京で33人もの豪商の名が挙げられている。その多くが呉服所や両替商などを営み,二条以北,中立売以南の堀川と室町の間という,禁裏,二条城,西陣機業に近接した地域に集まっていた。
 呉服所とは皇室や将軍家,諸大名などの呉服御用を勤める家をさし,禁裏呉服所の八文字屋善兵衛を筆頭に,本院呉服所は伊勢屋市左衛門,将軍家呉服所には後藤家,茶屋家(四郎次郎),三島屋,上柳家,亀屋家,茶屋家(新四郎)などの著名な京呉服師がいた。諸大名の呉服所も166軒を数え,ほとんどが上京に集中。両替商では,筑前黒田家と長州松平家の蔵元として名高い三木権太夫,越後榊原家の蔵元を勤める日野屋甚太郎,長州松平家の掛屋を勤める大黒屋善四郎などがおり,上京は長者の町といっても過言でなかった。油小路今出川上ルで刀剣の研ぎや目利きを営む本阿弥家や献上菓子司の川端家,一条烏丸の虎屋・黒川家なども記録に残っている。
 しかし,京都の町人は大名貸しの失敗から栄枯盛衰を繰り返す。その一例が,画家・尾形光琳の生家,雁金屋であろう。
 雁金屋が店舗を営んだのは中立売小川付近とも,中立売智恵光院付近ともいうが不詳である。近江の浅井長政の家来筋であった2代目・道柏が,長政の3人娘である淀君,京極高次夫人,徳川秀忠夫人などに引き立てられ高級呉服商になったらしい。3代目・宗柏の時,秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内してからは皇室にも出入りし,繁栄の道を辿った。宗柏は,将軍家と東福門院和子を最大の顧客に雁金屋を発展させる一方,本阿弥光悦の文化村にも参加,豊かな文化的知識と教養を身に付けた文化人として頭角を現す。4代目・宗謙も,彼の3人の息子,藤三郎,市之丞(光琳),権平(乾山)も能楽や絵画に親しんだ。
 しかし,延宝6年(1678),東福門院が死去。最大の顧客を失った雁金屋は,大名貸しに手を出し,回収不能が重なって没落の道を辿る。それでも宗謙が世を去った時,光琳が受け継いだ遺産は山里町や西ノ京の家屋敷など多額にのぼり,彼はこの遺産で遊蕩生活を始める。そのため受け継いだ財産も次第に減り,本格的に絵を描き始めるようになった。
 狩野派の流れを汲むとはいえ,流派の制約を受けない自由さを持つ彼の画風は,人々の目を引いたようである。しかし,浪費僻や遊蕩生活は止まず,広大な屋敷も人手に渡って上御霊神社前の中町薮内町に移る。そこにパトロンとして現れたのが,京都銀座方の役人・中村内蔵助であった。内蔵助は金銀の改鋳で巨万の富を得た成り上がり者で,町人たちの評判は良くなかったが,光琳が内蔵助の娘・お勝を5年間養育するなど,かなりの親交があったらしい。元禄14年(1701),光琳は法橋位を獲得し,名実ともに第一級の画家となるが,この法橋位獲得は親交のあった二条綱平卿の推挙によるらしい。現存する彼の作品のほとんどが「法橋光琳」の落款を持つ。
 光琳の作品は「燕子花図屏風」に代表されるように,リズミカルな音楽的構造を持っている。ひとつの花の群れが,あたかも合羽刷り的な方法で繰り返し並べられるのである。これは彼以前にはなかった新しい装飾手法で,まさに近代絵画の先触れといえる。画家としての名声と富を得た光琳は正徳元年(1711),新町通二条下ルに土地を購入し,自ら設計した屋敷を新築,そこで次々と大作を描いた。宗達の「風神雷神図屏風」を模写したのもこの頃であり,やがて晩年の傑作「紅白梅図屏風」に到達する。彼の芸術は「琳派」としてその後も多くの人に引き継がれ,染織界はもちろん,あらゆる分野で不滅のものとなっている。

 

本阿弥光悦京屋敷跡の写真

本阿弥光悦京屋敷跡
(油小路通今出川上ル)


とらやの写真

とらや(烏丸通一条上ル)

尾形光琳新町二条屋敷間取絵図

尾形光琳新町二条屋敷間取絵図
(正徳元年)

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