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我が学区の身近な歴史舞台再発見/赤穂浪士ゆかりの地

ページ番号29806

2013年5月21日

 長い年月の間、様々な歴史のドラマが上京区を舞台に繰り広げられてきました。歴史上の著名な出来事だけでなく、それを取り巻く暮らしのドラマもありました。この道、あの辻でどんな出来事があったのか、想像を膨らませていただければと思います。今回は成逸学区と中立学区を紹介いたします。

成逸学区

 堀川通鞍馬口下る瑞光院前町の西側歩道に面し、「瑞光院 赤穂義士四十六士遺髪塔跡」の記念碑が平成17年12月に建立されました。

 瑞光院は当時の院主が浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の妻、瑤泉院(ようぜんいん)の親戚に当たり、また浅野長政の別邸跡に創建されたことから赤穂浅野家の祈願寺でありました。元禄14年(1701年)、浅野内匠頭は吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)への刃傷の後切腹、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)は当院に亡君の遺品を埋め墳墓の石塔を建て、以後同士密議の場所としたと伝えられています。翌元禄15年12月、四十七士が本懐を遂げ、その後大石内蔵助の遺志により四十六士の髷(まげ)の髪(四十七士のうち寺坂吉右衛門は切腹せず)を数個の瓶に分けこの地に埋め遺髪塔を建立しました。瑞光院は昭和37年に山科に移転、それに伴い遺髪塔も移転しましたが、その際、瓶の中に四十六士の遺髪が確認されました。

 なお、この記念碑は瑞光院跡地に本社を構える企業が、討入りから300年を機に計画し建立されたものです。

中立学区

 茶道現代六流派の一つ「宗遍流」の祖、山田宗遍(やまだそうへん)は寛永4年(1627年)に長徳寺(西洞院通上長者町上る)で生まれ、若くして第五世住職となりましたが、18歳で千宗旦に入門。26歳で寺を隠退し宗旦から皆伝を授かり、四方釜をいただき四方庵と名乗りました。その後、宗旦は宗遍に「不審庵」「今日庵」の両庵号を用いることを許しました。

 赤穂浪士にまつわる話として、宗遍流を興して江戸に移った宗遍の居宅の近く、本所松坂町に吉良上野介義央の屋敷がありました。吉良上野介と宗遍は京で宗旦の門に学んだ門人であり、吉良邸を訪れ茶の湯の交わりを続けていました。

 赤穂浪士の一人、大高源吾が大石内蔵助良雄の命により宗遍の下で茶を学び、吉良邸で開かれる茶会の日が12月14日であるとの情報を入手し、討ち入りに臨んだと言われています。

 大高源吾は、師匠の宗遍を裏切ったことに深く心を痛め、討ち入り後に詫状と茶杓を贈りました。宗遍もそんな源吾を許したとのことです。

 

<市民しんぶん上京区版平成18年12月15日号に掲載>

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