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学区案内/乾隆学区(けんりゅう) ※上京区120周年記念誌(平成12年3月31日発行)から抜粋

ページ番号29006

2013年5月21日

乾隆学区

今宮神社の鉾町を中心に,価値ある地域文化財が数多く保存される乾隆学区

 

■学区の概要と歴史

乾隆学区各町別図

 明治5年の上京区三番組小学校の名称である。
 命名は,当時の三番組区長山田豊圓師(西芦山寺町 真言宗醍醐派文殊院のご住職)である。学務委員でもあった。校名の由来は,京都御所の乾(西北)の方向で隆昌になって欲しいという意味である。他に,中国の清朝皇帝高宗乾隆帝にあやかって命名したという説もあるが,これは違うと思う。乾隆帝は,江戸時代の桜町天皇の元文元年(1736)に即位して,60年間在位して,光格天皇寛政7年(1795)に退位し,清朝中国の国威を最高に高めた専政君主である。日本の8代将軍吉宗から11代将軍家斉に至る時代である。しかし,明治初年に日本の小学校に乾隆の名をつけたとはちょっと考え難い。もし,そうとすれば,余りにも突飛な動機と言えよう。但し,幕末から明治20年ごろにかけて清朝の廷臣や軍人が何回か日本を視察していることは事実である。このことは仁和寺の記録にもある。
 乾隆帝の存在が,日本人の心を惹きつけているのは,ロシア帝国の帝国主義的なツァーリズムの侵出を断乎として許さなかった点(ネルチンスク条約の締結)に,明治人の心をとらえるものがあったとは思える。でも,命名者山田豊圓師の心はそうではなかったと思う。文殊院に今も残る記録を見れば,よく判ることである。

印半纏

印半纏

乾隆瓦

乾隆瓦

乾隆点描

 

【閻魔前(えんまのまえ)町】 引接寺(いんじょうじ) 

 高野山真言宗の寺で「光明山歓喜院」と号し,千本閻魔堂と通称されている。平安時代,源信の法弟「定覚(じょうかく)」が創建している。
 開基の小野篁(おののたかむら)が地獄へ行って「閻魔大王」に会い,精霊(しょうらい)を現世に迎える秘法を教えられ,それを衆生(しゅじょう)に伝えたのが建立の始まりと伝えられている。境内には古い石仏像が多い。また仏師定朝(じょうちょう)作の本尊閻魔大王座像と脇に司命(しみょう)・司禄(しろく)の像があるので有名だ。なお,有名な「普賢桜」がある。花ビラが普通の桜花のように散華(さんげ)しない珍しい桜の花である。
 定覚は,有名な「閻魔堂念佛狂言」を創案して,衆生にみ仏の教えを判り易く説明したとの伝承があるが,あの台詞といい,演劇性といい,筆者には平安時代の成立とは思えない。室町時代以後の成立と思われる。壬生寺の狂言に見られるように,念仏狂言には,普通台詞がない。この寺の狂言には,台詞もあるし,伴奏音楽もある。昭和初期には,壬生狂言よりも,閻魔堂狂言の方が,少年の筆者には判り易くて,面白かった記憶がある。
 京都の所司代や町奉行所が,本寺に対して,何かと財政上の支援をしていた記録がある。多分刑死者の冥福を祈らせたからだと思う。また紫野白毫院(びゃくごういん)より移転された石造の紫式部の供養塔がある。式部と篁との関連は他にも見られることだが,かの女もまた,篁と同じく韓国系帰化人の子孫であろうか?
 当町は,後一条天皇の寛仁元年(1017)に引接寺が建立されてよりその門前町であったと考えられる。その町成立の歴史としては,乾隆学区内でも特に古いものである。この辺の千本通は,蓮台野の葬送場への途中にあって,門前町を必然的に形成する運命にあったと考えられる。本寺建立の前年長保5年(1003)は,何と紫式部の没した年である。本町名は,寛永14年(1637)の『洛中絵図』にはすでに明記されている。

 

お地蔵様群像

お地蔵様群像

石仏群 平安時代のものが多い

石仏群 平安時代のものが多い

寺内の仏様

寺内の仏様

 

【北玄蕃(きたげんば)町】

 江戸時代初期,寛永14年(1637)の『洛中絵図』の中に「新猪熊玄蕃町」と記された町がある。
 この町の北部にあったので「北玄蕃町」と呼ばれたと考えられる。「新猪熊玄蕃町」は後に「新猪熊西町」と合併して「新猪熊町」となったらしい。現在の「新猪熊町」である。千本通芦山寺を東へ入った芦山寺通の南北側を現在「北玄蕃町」といっている。玄蕃町の名称がなぜ初めに起こったかは定かでない。「玄蕃町」の名称は元来伏見区内の町名にある。
 伏見区内の「玄蕃町」の名称は,秀吉の家来の「有馬玄蕃頭農氏(げんばのかみとようじ)」の邸宅があったからそう言ったらしい。藤森神社の神官であった「藤森玄蕃」の説もあるが,西陣の「新猪熊玄蕃町」の名称の起こりについては一切不明である。

 

芦山寺通から西の方を見る

芦山寺通から西の方を見た北玄蕃町の一部

芦山寺通から南の方を見る

芦山寺通から南の方を見た北玄蕃町の一部

芦山通から東の方を見る

芦山通から東の方を見た北玄蕃町の一部

乾隆今昔

 

【西芦山寺(にしろうさんじ)町】文殊院

 当時(明治時代の初め)文殊院第11代の住職山田豊圓師は上京第三組の初代区長であったことが,当時の本寺所蔵記録で明白である。師は乾隆校名の創案者である。
 御所の乾の方向が隆盛になるように希って名付けられた。

 

文殊院の写真

当町の象徴的存在である文殊院
現在は真言宗醍醐派のお寺である

浄土宗門人別改帳

浄土宗門人別改帳
現今の区役所の役をつとめさせられていたお寺の実態を示している

明治42年9月祝辞

明治42年9月祝辞
「乾隆」の校名の由来がよく判る。中国清朝の乾隆皇帝の名をとったというのは,まちがいである

区内の市中見まわりの時に使用された陣笠

山田師が区内の市中見まわりの時に使用された陣笠
高級武士の扱いを受けておられたことが判る。明治10年頃までは,幕末の遺風が強かったようである

 

【西社(にしやしろ)町/別称・御車(おくるま)町

 櫟谷七野社の近くにあり,中社町,東社町に対する町名として,寛永14年(1637)『洛中絵図』に登場する古い名称である。明治5年一番組上京第三区となる。明治22年に京都市上京区西社町と正式に定まる。今宮神社の記録には,元禄2年(1689)に西社町の名が記されている。
 今宮祭は,源は古く,紫野御霊会(ごりょうえ)と称して,正式な官祭(朝廷の祭り)であった。その頃から御車が今宮祭のパレードに参加していたかどうかは定かではない。12体の古鉾の他に新鉾5体が定められた元禄期に入ってからは,この御車がパレードに参加していたことは,今宮神社の絵図を見ても判る。西社町の人には,以前から桂昌院の御車と言って大切にされている。今宮祭の行列に,いつ頃からこの車が参加していたかは,記録を見てもよく判らない。応仁の乱後の室町末期の今宮祭礼の行列には,古鉾と同じくらい古くから参加していたようだ。元禄期に桂昌院阿玉の方の尽力により,氏子の区域や祭礼の形式が再編成された時に,西社町の維持すべき今宮祭の重要な要素となったようだが,今となっては確たることは判らない。当町と桂昌院とが何らかの関係があったと推察する外ない。御車の御神体は「今宮大明神」と「紫野相殿(あいとの)明神」である。

 

御車内部
町内を試し歩き
桂昌院寄進による御車

桂昌院寄進による御車

 

【歓喜(かんき)町】

 俗にいう「聖天さん」つまり雨宝院の歓喜天仏に関係のある町名かと思われていたが,「歓喜寺」があったので歓喜町となったらしい。
 歓喜寺は相国寺系の尼寺で,寺領400石を有し,内親王が降下される由緒ある大寺院であったが,焼失して再建ならず焼野原となっていた。竹やぶもかなりあったらしい。
 この歓喜寺から町名がついた。平安時代今宮神社の紫野御霊会が催された時,富の松鉾がつくられ,当町の維持となり,今宮祭に古鉾として参列する由緒ある責任の町となっている。
 歓喜寺は天正年間(江戸初期)に焼失する。

 

御鉾由緒書

御鉾由緒書

富の松鉾全影

富の松鉾全影

祭壇に祭られる御鉾

祭壇に祭られる御鉾

富の松鉾組み立ての場

富の松鉾組み立ての場

 

【姥ヶ北(うばがきた)町】

 上京区上立売浄福寺2筋目上ルにある町名。姥が懐(ふところ)「姥カ原」の一部である。
 町内に玉淵寺がある。日蓮宗頂妙寺派に属する寺。
 江戸時代初期の寛文年間の開基であったが,その後享保天明の大火に類焼し,現在の地に再建されている。
 当町で大切にされている地蔵尊は元姥カ原にまつられている石仏を,町内の方々が代々大切にまつられて,守っておられる。ご尊容の立派な石仏である。玉淵寺の東北隅に鎮座されている。彩色石仏で,江戸初期の作と考えられる。
 現在玉淵寺に鎮座坐す。「元姥ヶ原」の石仏であろう。ご町内ご守護の仏像である。江戸初期の作と見られる。焼失したどこかの寺のものであったと思える。西陣の画工職人がお顔や光背を彩色したといわれている。当時は,大きな野原を柏野,北野とか称して,やや小さな野を「原」と称した。姥カ原,○○カ原というのは本来焼失地が大きな空地となって「○○原」といわれていたことが多い。
 ご維新の東征に際して,軍資金を各町内に募ったところ,姥ヶ北町が金25両を献金したことに対する,官軍の受領証である。
 珍しくて,骨董的価値も大であろう。
 当時の金25両は現今の500万円相当と思われる。

 

元姥ケ原の石仏

「元姥ケ原の石仏」

官軍の受領証

官軍の受領証

乾隆点描

 

【花車(はなぐるま)町】

 江戸初期の文献に見える古い町名。平安時代花山法皇が御幸の時,このあたりで車が破損したので付近の住民に与えられたとする説。足利義満が,洛中の各地から名花の木を略奪した時,車が破損したのでこの付近の人々に与えたという説がある。その車は釈迦堂(大報恩寺)に今もあるという。当町の文化的遺産は何といっても石像寺である。家隆山光明遍照院石像寺という。
 釘抜地蔵と呼ばれている。苦抜地蔵として病気平癒に霊験があると伝えられている。今も参詣者が絶えず,平安時代弘仁10年(819)創建以来,今日もなお寺運は隆盛を極めている。
 古鉾枇杷鉾を維持する由緒ある町である。

 

ご本堂

ご本堂、釘抜きが珍しい

釘抜き祈願の額

釘抜き祈願の額

山門

山門

枇杷鉾

当町の守護される枇杷鉾

石地蔵群

石地蔵群

門前の寺碑

門前の寺碑

大師寺

大師寺

 

【牡丹鉾(ぼたんぼこ)町】

 千本通五辻上ルの町名,江戸末期より当町名が文献にみえる。
 今宮社の牡丹鉾を維持されてる町だからこの名称がある。古鉾の町は,名誉ある町である。

 

牡丹鉾のご尊姿

牡丹鉾のご尊姿

ご祭壇の前の牡丹鉾

ご祭壇の前で。
現在も今宮祭時の誇り高い鉾町のお姿を見るのである
室町以来の古鉾である

 

【作庵(さくあん)町】

 江戸時代の初め,「作庵」という内科医が住んでいて評判が高かったので,この名があると伝承されている。作庵については,諸説があって,決定しにくい。主な説を次に列挙する。
(1)作庵は策伝であったという説。策伝なら戦国大名金森家の血縁者である。金森可重(よししげ)の実弟との説がある。寛永年間に死す。仏学,本草学,造園,茶道,医術に詳しく,椿の研究家としては有名。文学にも堪能であった。
(2)慶長年間に住んだ,石黒作庵のこと。「祖母懐」(うばがふところ)の銘をつけた焼き物を焼いて,姥カ原に窯を造った。医術にすぐれ,住民に慕われていたらしい。
(3)緒方作庵という説,緒方作庵は,元禄期に死んでいる。文学,書道,絵画にすぐれ,医者でもあった。住民に慕われていた。
 作庵町の名称は古く,寛永14年(1637)の記録にすでに見えている。
 現在でも作庵町の住民は遺徳を偲び,忌日には石像寺の墓に墓参されている。毎年回向もされていると石像寺ご住職はおっしゃっている。

 

柏鉾の出だし

柏鉾の出だし

祭壇の柏鉾

柏鉾は千本芦山寺西入ルの柏清盛町より譲られたが,今では作庵町の古鉾である

 

【姥カ寺之前(うばがでらのまえ)町】

 乾隆小学校は,江戸時代末の「姥カ原」の地に,明治初年上京第三組小学校として創立されたものの後身である。平成11年晩秋より新しく改築されている。掲載の写真は,それまでの小学校の姿を伝えるものである。元来この町は姥カ原にあった本瑞寺(姥カ寺といわれていた)の前に位置していた町内であった。でもこの町名は,江戸初期の文献資料にはすでに散見されている古い町内である。

 

旧校舎の写真

校舎をのぞむ

乾隆小学校の校門

校門

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