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京都市上京区

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我が学区の身近な歴史舞台再発見/暮らしを支える「商店街」

ページ番号29807

2013年5月21日

 有名な社寺仏閣などが多い上京区ですが、ここに暮らす皆さんの生活を支えてきた「商いの場」も、しっかり地域に根付いています。地域の暮らしと交流を支えてきた商店街に積み重ねられてきた「暮らしの歴史」も、上京区の大切な財産です。今回は京極学区と待賢学区を紹介いたします。

京極学区

 出町には、大正・昭和時代の繁華街の風景が残っています。老舗の店構え、昭和初期の看板建築、手作りの京豆腐や京漬物の店、乾物屋・荒物屋・貸物屋といった今では珍しい商売など。いつか見た懐かしい風景に出会えます。

 出町は、京の七口の一つ「大原口」に当たります。京の七口とは、京都から各地へ向かう街道の出入口です。「大原口」は八瀬大原を越えて日本海側へ続く「若狭街道(鯖街道)」の出発点(そして終着点)でした。大正・昭和時代の出町は、洛北や若狭の物産の集散地であり、同時に都の文物をこれらの地域に供給する、京都の北のターミナルとして栄えました。戦後には、同志社、立命館をはじめとする5つの大学に囲まれた、学生文化の中心地ともなりました。

 昭和から平成に大きく時代が変わりましたが、昭和のレトロな繁華街・出町は、庶民的な買い物の町として、あるいは本物が手に入る隠れた観光スポットとして、大原口の賑わいを今に伝えています。

待賢学区

 御所と聚楽第に程近い西堀川通周辺は、16世紀頃から東西の椹木町通とともに、京都最大の魚鳥菜果市場として栄えました。明治中頃には小売店や飲食店が多数を占めるようになり、大正中期にはアーケードの前身となる鉄骨アーチにテント張りと道路舗装が私費で設置されました。そして自転車や車馬の通行が禁止され、中立売から丸太町間に約250店が創業し、「堀川京極」と呼ばれる市内有数の繁華街・歓楽街として栄えました。

 しかし戦争末期の都市空爆に備えた戦時建物強制疎開により、堀川京極は消滅しました。その後昭和26・27年頃に、通りの西側のみが現在の堀川商店街として復活、これは日本初の店舗付住宅であったことから各方面から多くの視察がありました。その後かなりの盛況が見られましたが、近年ではスーパー等との競合、建物自体の耐用年限などの課題も抱えています。

 

<市民しんぶん上京区版平成19年1月15日号に掲載>

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