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学区案内/成逸学区(せいいつ) ※上京区120周年記念誌(平成12年3月発行)から抜粋

ページ番号29014

2022年8月4日

成逸学区

かつては貴族が往来し、幹線道路として賑わった大宮通

 

■学区の概要と歴史

 成逸学区は上京区の北端に位置し、北区と接しています。付近には史蹟が多く、学区内には文化財を有する名刹や由緒ある神社が散在し、歴史を彷佛とさせます。
 この地域は、平安遷都以前は賀茂の神領でしたが、平安時代に紫野斎院(跡地が七野社)が移され、大宮通は雲林院を経て賀茂の社に通じる幹線道路として貴族の往来で賑わいました。
 後期には、今宮御旅所や水火天満宮も見られ、大宮寺之内辺に比叡山の東塔竹林院の里坊として安居院が建立されて修行僧や僧兵で賑わい、安居院流の唱導が一世を風靡しました。
 この頃に大宮の街路は形成されました。応仁の乱の戦場になって焦土となった地域は、秀吉の都市計画によって近辺に寺院が集められ、寺院群が出現しましたが、廃寺が多く今でも存続する寺は少なくなりました。
 メイン通りの大宮を挟んで両側に縦町が延びて芦山寺や寺之内が千本まで通って市街化されました。大宮通は交通の要路として商人宿や荒物問屋、呉服店などが集まり、次第に商店街として発展していきました。
 区内には江戸時代以降、西陣組の高機仲間の一員として名を知られた機業がありました。西陣織の工程は複雑ですが、地域は主として下請け関連の家内工業に従事する者が多く、準商工業地帯として今日に至っています。
 地域には、町内の互助機能を示す取り決めや町内会の規約等の古文書等が多数残っています。今でも学区の結束は固く、自治会館を中心に活発に活動しています。

 

区内の史跡

 

■安居院西法寺
 平安後期に建立された安居院は天正年間に焼失しましたが、後に聖覚法印の隠居所のあった安居院新町に再興されたのが西方寺。この寺は天台宗から本願寺派に転じ、准如上人から西法寺の寺号を追加され、安居院西法寺として現在に至ります。紫式部の亡霊を供養する聖覚作「源氏表白」が伝承され、毎年4月の聖覚忌に「源氏供養講式」がおこなわれています。

安居院西法寺

 

■興聖寺
慶長八年(1603)、千利休の高弟、古田織部の素願によって建立されました。臨済宗興聖寺派の本山。

興聖寺

 

■七野神社
貞観元年(859)、紫野斎院の跡に建造されました。春日大社のお使いの鹿が飼われていたこともありましたが、今では荒廃しています。

七野神社

 

■若宮神社
源頼光の邸宅跡に建ったと伝えられていますが、創建年は不詳。

若宮神社

 

■水火天満宮

延長元年(923)、神託があって菅原道真を祀りました。
昭和27年、堀川通拡張に伴い現在地に移る。

水火天満宮
水火天満宮の登天石

登天石

成逸今昔

 

■大宮通の今昔/三島利則さん

 昭和初期まで大宮通は御旅で突き当たり西に折れて今の旧大宮に続いていました。当時鳥居は南向きに建っていましたが、昭和5年に大宮通が北進し新大宮が開通。それに伴い御旅所の鳥居は現在地に移転しました。その名残として、大宮頭は地名として最近まで残っていました。
 今宮御旅所の歴史は平安後期頃に溯りますが、幾多の火災に遭って壊され、徳川桂昌院によって再興されました。境内には立派な能舞台があり、戦前から戦後の一時期まで、ここで薪能が開かれました。
 祭礼の10日の間は、境内に見せ物小屋やあぶり餅屋等の屋台が所狭しと並び、境内をはみ出した屋台が道路を占領して北大路まで続いて大宮通は人波で溢れていました。普段の大宮通は近郊からの買い物客が多く、盆・暮れや祭礼時は深夜まで人波が絶えず、商店は夜通し開いていました。芦山寺から寺之内は「あぐい(安居院)」と呼ばれ、映画館や寄席があり、商店や飲食店が夜遅くまで店を開けていて繁盛していましたが、戦争で中断され、大宮にも陰りが見え始めました。
 戦後の復興で、西陣のいわゆるガチャマン景気に支えられて商店街は活気を取り戻しましたが、人口のドーナツ化現象で北部が発展したことで新大宮商店街に人が集まり、大型スーパーの進出等で地元商店街は急激に落ち込みました。その上、西陣の景気低迷が加速して今の大宮通から昔の繁栄のおもかげはありません。

 

大正時代の大宮寺之内付近

大正時代の大宮寺之内付近

今宮御旅所の南向きの鳥居

今宮御旅所の南向きの鳥居
大正から昭和初期の頃

昭和初期まで米を搗いていた水車

昭和初期まで米を搗いていた水車
今の天神公園にあった

現在の大宮通 御旅所付近

現在の大宮通 御旅所付近

 

■大宮通を市バスが走ってた/穴瀬初栄さん

 大宮通を市バスが走っていたことを思い出して、古老からお話を聞きました。
 京都市は昭和3年のご大典に合わせて小型の市バス(12名乗り)を市電の補助交通として走らせています。円タク華やかなりし頃の昭和初期には値切ると50銭で走る半タクがあって人気があったそうですが、大宮通に市バスが通りました。
◎昭和3年、待鳳校~大徳寺前~大宮鞍馬口~大宮今出川~堀川~上立売~大宮~待鳳校(料金6銭)
 確かに走っていたと言われるお年寄りもおられますが、昭和の恐慌で市電の客も減ったといわれる時代に、どの程度利用されたか不明です。また、時期は不明ですが、鞍馬口通にも走っていたと記憶している方もあります。市電の路線が北大路にも延びて交通が便利になりましたが、大宮通にはバス路線がありました。
◎昭和15年、上賀茂車庫~大徳寺~大宮今出川~烏丸四条~七条本町~京阪桃山
 この路線はいつまで走っていたかは不明ですが、四条まで乗ったとご記憶の方もおられます。
◎昭和34年から36年まで、三哲~京都駅~烏丸丸太町~医師会前~寺之内智恵光院~大宮鞍馬口~大徳寺~金閣寺
 今ほど自家用車が多くないものの、狭い通りを走るバスは大宮寺之内で方向転換するのが大変だったそうで、冷や冷やしていたと証言される方がたくさんおられました。
 堀川通が整備され、大宮通の路線は廃止されました。

 

昭和10年代の路線バス

昭和10年代の路線バス

 

■閉校した母校の思い出/山添博子さん

 成逸校は、明治2年に上京第二番組小学校として創立され、8年に成逸小学校に改称されました。手狭になった学校は、明治39年に、上天神町から現在地に新築移転しました。当時は、小学校から東は寺院が多く、水車があって寂しい所でした。その年、小学校の西隣に移転してきたのが菊花女学校で、私が進学した淑女高等女学校の前身です。大正元年に菊花女学校は淑女に学校を贈与し、規模を大きくして地域の女子教育に道を開きました。
 女学校へ進学する人はまだ少ない時代でしたが、昭和8年に成逸校を卒業した私は、父の勧めで淑女高等女学校に進み、昭和12年に卒業しました。昭和15年紫野に移転した淑女の跡に、成逸校高等科の西校舎が新築されましたが、昭和20年4月の火災によって全部焼失しました。
 昭和44年に創立100周年を迎えた成逸校は、3期に分けて今の鉄筋校舎に生まれ変わりました。100周年記念は盛大に挙行され、当時の記録、在校生の氏名や未来への夢等をカプセルに託して記念碑を建てました。当時婦人会の役員をしていた私は、時代の移り変わりを感慨深く眺めていました。その頃をピークに児童数が減少し、平成9年、西陣中央小学校と統合し成逸小学校は閉校しました。
 紫野に移転した淑女高等女学校は、戦後の教育改革で京都市立紫野高校になり、奇しくも私の卒業した学校は2校とも時代の流れで閉校となりました。

 

淑女高等女学校 東隣は成逸小学校

淑女高等女学校 東隣は成逸小学校

創立100周年記念碑

創立100周年記念碑

西陣織を支えて

 

■西陣産業革命の立て役者/飯田勝巳さん

 成逸は西陣関連の職人が、技術者としての誇りと気概を持って西陣を支えてきた地域です。
 西陣発展に大きな功績を残された伊達家の資料は西陣織物会館に奇贈されていますが、7代目ご当主で92歳になられる伊達静さんをお訪ねしました。伊達周斎翁100回忌に出された翁の伝記からその足跡をまとめてみました。
 井筒屋弥助は江戸時代から西陣高機仲間として知られた旧家です。文化10年、現在地の天神北町で生まれた4世弥助(伊達周斎)は、生来学問を好み、和漢をはじめ蘭学、理学、医学を学んだ秀才で、高邁な気風を備えた逸人でした。
 明治維新の西陣は衰退していて、京都府は西欧技術導入のためリヨンに留学生を派遣しました。次いで明治5年、周斎は政府から西陣を代表してウィーンに派遣されました。
 渡欧団の中でも最年長であった60歳の彼は、「西陣を興すの時期、この行にあり。一身一家を犠牲とする敢えて辞する処にあらず」と病床の妻に決意の程を書き送っています。
 ウィーンの織物学校で織技を学び、欧州各地を視察して明治8年大任を果たして帰国した周斎は、明治天皇の御前で機械や技術を披露しました。この産業革命ともいえるジャカードの導入は、西陣を飛躍的に発展させました。
 息子の5世弥助は、種々の織物の改良に努め「伊達の錆織」を創案しました。明治23年に西陣機業界で初めて帝室技芸員を拝命し、名工として全国に名を馳せました。
 北野天神の裏手に「西陣名技碑」が建っています。

 

明治6年、渡欧時の伊達周斎翁

明治6年、渡欧時の伊達周斎翁
『伊達周斎翁伝』(伊達静)より

日本で最初におられた西洋文様

日本で最初におられた西洋文様
『伊達周斎翁伝』(伊達静)より

 

■伝統産業の魅力を後世に伝える/山田志朗さん
 大正2年に成逸校を卒業された山口伊太郎氏は、若くして機業家として独立、帯地を製造販売してこられた西陣織物業界の重鎮です。
 その集大成として、後世に残る作品をと、90歳から徳川美術館所蔵の「源氏物語絵巻」を織物で復元することに意欲的に取り組まれ、96歳で『源氏物語錦織絵巻』をみごと完成されました。成逸校の閉校記念誌の題字を揮毫して頂き、「絵巻」を収録させて頂きました。
 実弟の山口安次郎氏は、大正6年の卒業で、家業を継いで機織り一筋にこられ、50歳を過ぎて唐織りを始められました。「能衣装は300年は残せる。そのためには経済性を度外視して生糸から吟味せなあかん。良い素材を選び、染料の堅牢度にも気を配り工夫を凝らしている」と、95歳の今も能衣装を織っておられる現代の名工です。
 自分の仕事に誇りを持って挑戦し続けられるおふたかたは、地域の誇りであり、その気概を後輩である私たちも受け継ぎたいと思います。

 

源氏物語錦織絵巻

絵巻物

 

 

 

成逸住民福祉協議会ホームページ

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