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学区案内/嘉楽学区(からく) ※上京区120周年記念誌(平成12年3月31日発行)から抜粋

ページ番号29005

2013年5月21日

嘉楽学区

いまだなお伝統工芸の数々がいきづく嘉楽学区

 

■学区の概要と歴史

嘉楽学区 区域図

 東は智恵光院通,西は千本通,南は一条通,北は五辻通を境界とする面積0.209平方キロメートルの地域です。
 中世には,五辻通千本東入辺りに象林寺,景愛寺が建てられていました。この地域の開発はほぼこの時期に始まるといえます。また通っていたと想定される古道は,南北千本通,東西の五辻通と,須磨町通で,須磨町通が現在の今出川通です。千本通は千本閻魔堂への道であり,また須磨町通は,近世に「おまへ通」の異称をもつ,北野社への参道として発達し,しだいに周辺に町が形成されていきました。
 もっともこの地域が町地として発達するのは天正年間(1573~92)以後の事と考えられ,西陣機業の西方への拡大と関連しています。東西の元誓願寺通,笹屋町通は天正年間の開通と伝えられ,般舟院は文禄3年(1594)に伏見から移転してきており,南北の通りである浄福寺通の名称起源となる浄福寺も,元和元年(1615)には現在地に移されていました。そして五辻通は絹織物業者や糸商売の家が軒を並べた大宮通辺りからの続きで須磨町通も絹織屋が多く,この地域一帯は西陣織機業の町としてにぎわいをみせるのです。
 笹屋2丁目は,「今織り丁」の異称を持っていますが,笹屋町通も新職の町でした。明治2年の町組改正で,当地区は上京4番組に編成され,明治5年に第7地区,同12年に第7組,同25年に第6学区と名を変え,昭和4年に嘉楽中学の隣に,嘉楽門院の墓があることから嘉楽学区と命名されました。

嘉楽今昔

 

千本通一条上ル 泰童片原町付近(昭和38年)

千本通一条上がる昭和38年の写真

大超寺の有名な銀杏の大木(現在上京ハウス)

 

今出川通北小路

今では少なくなった今出川通の町家

今では少なくなった今出川通の町家

 

■千本今出川界隈

旧西陣署

旧西陣署

昭和2年の千本今出川交差点付近

今出川通が千本以西に拡張されていなかった昭和2年の千本今出川交差点付近

時計台のある店(昭和4年)

当時としては珍しい時計台のある鉄筋コンクリート造りの店ミヨシ堂、屋上では大文字が見られたそうです(昭和4年)

昭和初期当時にもあった北野幼稚園の送迎バス

昭和初期当時にもあった北野幼稚園の送迎バス

伝統工芸

 

■京の名工指物師/内藤邦雄さん

 物造りが好きで指物を習い始めたのは昭和10年からです。終戦後は進駐軍の家具一般の家具造りに追われる日が続きました。看板も無く宣伝もしておりませんが,仕事が多くなり長男と2人で頑張りつづけました。
 人間国宝の故黒田辰秋先生の作品造りをお手伝いするようになって,工芸展では毎年のように賞を受け,伝統工芸品作りにはげむようになり,昭和51年伝統工芸士認定を受け,昭和63年に京都府の名工表彰を受けました。年と共に一人前の職人としての責任を感じるようになりました。家業のかたわら今迄に覚えた技術のすべてを,若い世代に伝承していかねばと思い,園部町に日本でただ一つの通産省認定の伝統工芸専門校が創立されましたので教授として週3日おしえております。本物をやかましく言われる近頃,学校見学も多く生徒の作品出来上りを見て感心される人も多いのです。2年間の指導で職人作りまでは行きませんが,職人になる下ごしらえをさせて頂いていると思い,専門学校のある園部町に通っている近頃です。

作業場の内藤さん
欅拭漆塗文机の写真

欅拭漆塗文机

欅寄木細工の指物の写真

欅寄木細工の指物

神代欅寄木六角筥

神代欅寄木六角筥

 

■糸人形/平野健治さん

 ベールにつつまれた神秘的な伝説,どこかおごそかな習わし,人づてにつたわった不思議な言い伝え,科学の未開の陰で生まれた昔の人の知恵は,伝統を秘めた神事や奇習などとなってあらわれました。そして,今なおその地の風物詩として人々の心の中にほのぼのとした安らぎを与えています。
 笹屋町の造り物も医学の光りがまだほの暗かったころの住民の信仰の知恵が生んだ風習の一つです。25年前の新聞にこのように報じられました。
 笹屋町の造り物のそもそもの起りは,明治8年の地蔵盆前のころ,京の町々に,疫病がまんえんし,人々の生命をうばっていきました。うろたえる町の人たちは,お地蔵さんに供養しようと機道具や,絹糸,帯,お召,それに家財道具をつかって糸人形を作り,信仰と心を一緒にささげました。やがて疫病は地蔵盆をさかいにおさまり,「祈りが届いた」と喜ぶ人々は恩を忘れず,その後もお礼として,くる年もくる年も造り物を欠かさなかったのです。毎年のこの行事がすっかり西陣の生活の中にとけこんでいったのです。
 昭和12年より戦争のため空白の時がありました。戦後復活の声とともに昭和26年復活第1回造り物展が開かれた時は多くの西陣の人々を安心させたものです。
 笹屋町の造り物は昔ながらの町家で,紅格子をはずし,絹糸,帯,着尺で作る人形はもちろんの事,小道具や背景は機道具や,日常家庭でつかう道具で表現するのです。たとえば武士の鎧は紋紙を少しずつ重ねてあみ,橋は重箱を並べ,欄干は反物と糸枠で,屋根瓦は謡の本をひろげて重ねて置きます。町内の人たちがアイデアを出し合い,道具を持ち寄って面白く表現し,見物に来られる人々に楽しんでもらったものです。その後,町並も変り紅格子の家も少なく,機音のする家も少なく昭和43年を最後に途切れ,現在に至りました。
 我が家では毎年盆には息子や孫が「僕らが小さい時は,地蔵盆の造り物があったしなあ,あんな楽しい事はなかったわ…」となつかしそうに話しております。

糸人形「おね」の写真
糸人形の写真

区内の史跡

 

■嘉楽中学校の石碑

 嘉楽中学校は正門の右脇に4メートルはありそうな石碑が立っています。表に「禁裏道場蹟」と大きい字で彫られている石碑は,昭和15年に嘉楽校同窓会が建立した物です。なぜこの碑が建立されたかというと,嘉楽中学の前身である嘉楽小学校が,禁裏道場般舟院の由緒ある土地に建てられたからです。その般舟院の遺物である講堂と正門を,大正12年関東大震災で大破した鎌倉の建長寺の要請で寄付しました。そこで「由緒ある土地に立っていることを記念する物がなくなったゆえ碑を」と,おりしも紀元2600年にあたる年に建立されたのです。この時移築された建物は,現在も建長寺にりっぱにその姿をのこしております。
 なお彫られている禁裏道場の「道場」とは剣道や柔道の道場ではなく道を行う場の意味です。道とは仏教のこと。ひらたく言えばお寺。「禁裏」は御所のことです。御所法会を行う場と考えればいいでしょう。その跡と言う意味を記しています。般舟院のお寺が「禁裏道場」だったのです。

「禁裏道場蹟」

「禁裏道場蹟」

般舟院前

般舟院前

般舟院の正門
鎌倉建長寺に移築された講堂と正門

鎌倉建長寺に移築された講堂と正門

 

■五辻殿跡

 後鳥羽上皇の御所の一つで,造営は建仁3年(1203)。藤原信清が播磨国を賜って造進した翌元久元年(1204)御堂より小御所が早く完成したので,7月29日に安鎮法が修せられ,元久3年2月22日慈円が当御所で薬師法を修しました。鎮護国家の修法の場でもありました。その後の変遷や『坊目誌』が御所内にあったと記す最勝四天王院については不詳です。

五辻殿跡碑

郊外学習会

 

■林間学習の思い出/谷尻隆子さん

 昭和12年,私が小学校3年生の頃,町には,まだ今のように通る車も少なく,物を運ぶには,馬車や牛車が使われていた時代でした。
 車の上には米俵が山積にされ,それを頭にねじり鉢巻きをしめた若い馬子が,口にきせるをくわえて,ゆうゆうと,手綱をさばいていました。
 当時,私の通っていた,嘉楽尋常高等小学校の校長は,宮川先生でした。
 その年,学校からのすすめで,私は夏休みに嘉楽郊外学習会に参加しました。
 真夏の太陽の照りつける中,毎朝,五辻通を西へ,北野神社の東門まで歩き,そこで貸し切りバスに乗せてもらいました。
 金閣寺の境内には,テントがはってありました。毎日お世話をして下さる先生が,ついてこられました。私達わんぱく共は,休みの時間になると,男の児は木に登って,蝉や,黄金虫,クワガタ虫を探すのに,夢中でした。私等は境内の横を流れている小川に入って,川の中にいるタニシをさがしました。お昼に食べたおべんとう,母に作ってもらった梅干し入りのおにぎりの味は,今も忘れることが出来ません。

授業風景

授業風景

体操風景

体操風景

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