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学区案内/出水学区(でみず) ※上京区120周年記念誌(平成12年3月31日発行)から抜粋

ページ番号29010

2013年5月21日

出水学区

平安京─大内裏の中心部に位置した出水

「うちの横町に爆弾が落ちた」 ~子供達に語りつぐ戦争~

 

 出水地域120年の経過の中で,忘れられないことのひとつに,大戦中の爆弾投下の被爆があります。非戦災都市京都,また,他の戦災都市からみれば微小な被害として,東山馬町の場合と同じように忘れられかけています。
 二条城北小学校では,統合前の出水小学校の時から,6年生の社会科,戦争の学習の時間に,地域の住民に戦争体験の話をする機会を作って頂いています。
 平成10年秋の授業で,爆撃の体験を語ったのは磯崎幸典さん。その「語り部」としての思いを,次の一文にしたためて頂きました。

 

 

「非戦災都市として,知られている京都市が爆弾の洗礼を受けていることを,どれだけの人が知っているのだろう。もう,人口の3分の2が,戦争を知らない世代になっている。
 昭和20年6月26日,昼前。日本本土を空襲に来たアメリカ空軍B29のうちの一機から数発の爆弾が,私たちの住む出水,正親,待賢,の3学区の境界に落下して,多数の犠牲者がでたことを,知っている人も少なくなってきた。
 小学校の校長先生から,当時の体験を子供たちに,というご依頼のあったとき,ある種の逡巡もあった。しかし,当時17歳というもの思う青春期に,これまで過ごして来た路地や家並み,それを,友達や顔馴染みのおじさんやおばさんたちを,一瞬のうちに失ってしまった驚愕と恐怖の事実を,子供さんたちに伝え,語りつぐことが,それを体験した者のつとめと思い,西陣空襲の話をさせて頂いている。」

 

山中油店の店頭に展示されている爆弾の破片

山中油店の店頭に展示されている爆弾の破片

 

 

 後日,話を聞いた6年生から,礼状をかねて,感想文を頂くことになりました。その,全部を掲載させて頂きたいのは,やまやまですが,誌面の都合で,3人の子供さんたちのを,紹介させて頂きます。

 

■このまえは,お話を聞かせていただいて,ありがとうございました。重い爆弾の破片を持ってきていただいて,ありがとうございました。ぼくは,本物の爆弾をみたのは,あれがはじめてです。しかも,さわったからうれしかったです。物をたいせつにするということは,ものすごくいいことだなと思った。とても,勉強になりました。これからは,磯崎さんにおそわったことをいかして,物をたいせつにして,長もちさせたいと思います。
 こんなことを聞くのもへんですが,磯崎さんは,焼け野原をみてどう思いましたか。僕がそんなことをたいけんしたら,どうなるか自分でもわからない。磯崎さんは,そんなことにくじけず,今も元気にすごしているなんて,すごい人だと思います。 

加藤君

 

■ぼくは,磯崎さんの話を聞いて,とても,空襲時の様子が頭にうかんできました。そして,とても心に残りました。空襲時は食べ物もほとんどないし,落とされたばくだんのいりょくはとてもおそろしく,いっしゅんで回りの物をふき飛ばしてしまう。空襲の時に,すぐに入らないといけない防空壕の中は,とても暗くて,いごこちが悪い。この3つのことはとくに印象に残りました。
 ばくだんは,とてもたくさんの人や物をふきとばしてしまう,おそろしい物だということが,3つの中でも強く心に残っています。
 もう,これからは空襲など,2度とおこらない世の中にしたいと思っています。
 大八木君

 

■あまり,人に言えない話をしてくださってありがとうございました。
 ぼくは,戦争はとてもこわいものだなと思いました。とくに,いきなり,250キロもの大きな爆だんが落ちてくるのだから,とてもこわい。
 配給でも,米や食料を売ってくれないなんて,みんなが生活に困っているのだなと思いました。大切な物をつぼや箱に入れて,埋めたなんて,うめた場所をわすれたら,もったいないなと思いました。新聞に戦争のことばかりしかのってないのなら,ぼくなら,とるのをやめます。
 今では,なにものこってないし,面影もないから,この地域に爆だんがたくさん落とされたなんて,信じられない。
 これからは,戦争のない平和な世の中にしていきたいと思います。 

野口君

 

 

子供たちとのお話風景

子供たちとのお話風景

 

 

 戦争中の子供の生活として,学童疎開の話もさせて頂いています。これは,大戦末期,都会の多くの子供たちが体験したことです。
 この,平成10年秋の担当は後藤悦三さん。昭和8年生まれ。当時6年生,宮津での集団疎開の体験を語って頂きました。
 同様に感想文を頂きました。3人の子供さんのをご紹介します。

 

■後藤さん。この前はいろいろ貴重な体けんの話をしていただいて,どうもありがとうございました。おかげで,疎開した子供達の生活や気持ちが,もっと,分かりました。
 そのころの後藤さんは,私達六年とおない年で,あんなにつらい生活をされていたなんて,苦しかったんだろうなと思いました。
 食べ物も,ご飯の代わりに,じゃが芋のつぶした物だけが,湯のみじゃわんの中に,入っているだけなんて,私には,とても,たえられないと思います。
 子供の頃の後藤さんや,まだ子供の私たちには戦争を無くすことは出来ないけれど,大人になったら,平和にくらせる社会を作っていきたいです。
 私達にもできることは,きっと,あると,思います。
 田中さん

 

■この前は,ありがとうございました。
話の中で,疎開をして来た人と,疎開先の人達とのあいだの,差別やいじめのことがありました。私はこの話を聞く前は,疎開をしていた人と疎開先の人は,仲が良くて,毎日,話をしたり,遊んだりしていたと思っていましたので,おどろきました。そして,後藤さんが,私たちに一番伝えたかったことが「今,差別やいじめをしていると,一生,残る。」ということだと,だんだんわかってきました。戦争をして,ぎせいを出したことも一生残ると思います。
 だから,私が一番,うったえたいことは,昔の戦争のような死人をだすことはやめることと,いじめや差別をする,また,される時の気持ちを考えてほしいということです。
 昔の戦争の時代に生きてきた後藤さんはつらい思いで,話をしてくださったように思います。一番つらい思いは,親と6カ月もはなれて生活をしたことだと思います。もし,私がこの時代に生きていたら,すごく,つらかったと思います。つらい,思いの中,話をしてくださって,ありがとうございました。 

 内田さん

 

■後藤さんの話を聞いて,僕達は,ぜいたくをしていると思いました。今は,食べ物にも困らない。それに,ばくだんとかも落ちてこないし,びくびくしないでいいし,テレビゲームやむだづかいをして,ほんとに,苦労をせずに,ぜいたくをしていると思います。
 話を聞いて,物はどんなに大事かが,分かりました。えんぴつや,消しゴムなど,なくしたりして,よくさがしもしないで,すぐ,買ってしまいます。戦争中に,こんなことをしていたら生きていけないと思いました。
 これから僕は,戦争はやりたくないし,全部の国が仲よくなれたらいいのになと思いました。もし,また,戦争がおこりそうに,なったら,反対しようとおもいました。いろいろ話をしてくださって,ありがとうございました。
 猪口君

 

 

 「被爆体験を語った磯崎さんも,疎開体験を語った私も,こんなことで戦争も,差別も無くなりはしないのは,良く判っています。ただ,同じ地域に生活をしているこどもたちへの伝言,いや,私たちの年齢を考えると,遺言かもしれませんが,そんなことのあったのを知っていてほしいと思うのと,こんな話題や文章のやりとりの中で,いろいろな年齢の人の間で,言葉と心のキャッチボールが広まればなあ,とひそかに念願しています。」

 

対談「昭和も遠くなりました」

 

 まだ日本が日本で,日本人が日本人であった頃の出水学区の懐かしいお話。

 

語る人山中さん大正12年生・藤原さん昭和 3年生

聞く人国枝さん昭和 9年生

 

 

国枝唐突な話で恐縮ですが,今の中村公園や辰巳公園はいつできたんですか。そのへんの記録だけが無いんですな。

 

山中さあていつ頃やったか。はっきりした記憶がないもんで。どうせ,疎開跡か爆撃跡に違いないと思うんやけど。

 

藤原 私も,その辺の記憶はないですね。

 

国枝爆弾が落ちたときはどうでした。

 

藤原そのときは,学徒動員で島津の工場で働いてましたな。家の近くやということで帰らせてもらえましたが,家は無事でした。現場

の辺は警防団や警察の警備が厳しいて入られませんでした。

 

山中私も軍役中で伏見の師団にいましたが,急いで帰宅しましたけど,雨戸がひとつ外れたくらいで。良かったなあ,と,すぐ帰隊してしもたんで詳しいこと知りまへんなあ。

 

国枝私は学童集団疎開で宮津に行ってましたし知らんのです。山中さんとこの水車を見に来た観光客が,ウインドの爆弾の破片に結構見入ってますな。話は変わりますが,室戸台風のときはどうでした。

 

山中私は小学校4年生。

 

藤原1年生でした。

 

山中教室の窓から,理科教室やらがある東側の棟の瓦がびゅんびゅん飛んでいったんを覚えてます。

 

藤原そのときの校舎の痛みがきつかったんで全面改築になって,私等の四年生のとき,昭和13年でしたな。前の鉄筋の校舎になったんは。

 

山中私は,もう,卒業してましたし,鉄筋の校舎では勉強してしません。こんどできた学校にはエレベーターまでついて,なんちゅうこっちゃと思いますなあ。

 

国枝『出水校百年史』なんかによりますと,新出水の辺には,桃畑や杏畑,大きな池もあった,とありますが,そんなん,覚えてはりますか。

 

藤原新出水に,つい,先だってまであった西陣劇場。あれは,池を埋め立てて建てたんやと聞いてます。中川さんに聞きましたんやが,出水校の校庭から丸太町通が見えたそうで,結構空き地があったようですね。

 

山中下立売の家の前から御所の灯が見えた,とも聞いてます。うちの庭に100年とも200年とも言われる杏の古木が1本ありますが,それが,杏畑のなごりの木らしいですわ。新出水通は,うちのじいさんのときに畑の中に通した道や,とも聞いてますしな。

 

国枝出水のあたりが大きく変わったのは,明治の終わりから,大正の初め頃にかけてで,お2人がお生まれになるちょっと前になるんですね。私らの住んでいる主税町界隈は,所司代から刑務所,そのあと博覧会場を経てできた,いわば,上京での新開地。NHKが昭和7年。二条公園が,私と同じ9年にできてます。一番,変わった所といえば,このあたりかもしれませんなあ。

 

藤原私は平三さんの弟さんと同学年で,川上先生に1年から5年まで担任してもらいました。先生は山中さんのお向かいにお住まいで,大正9年から昭和14年まで,20年間もお勤めやったんですね。

 

山中私らは,夜,山中先生とこで勉強みてもらいましたで。今でいう家庭教師ですな。勉強もみてもらいましたが,よう呼び出しくって怒られもしましたな。

 

国枝戦前の小学校は,住んだはるとこの学校に赴任されはる先生が多かった。日常的な生活感を共にしながら,子供たちの教育をしようということです。戦後は職住分離とか癒着をなくすとかいって,居住地の学校への勤務をさけるようになりました。私らのときでも先生方が近くにお住まいになっていて,よう,遊びに行ったり,悪さを見つけられて怒られたりしたもんです。山中さん,藤原さんが出水校に在学されたのは,昭和の五年から14年にかけてですね。その頃の児童数はどんなもんだったんですか。私等は昭和16年の入学で,約2000人いましたね。

 

山中私らのときでも1800か,1900人はいましたで。一番人口の多かったのは大正の終わり頃から,昭和の15,6年ごろと違いますか。世帯も多かったかもしれんけど,1世帯当たりの人数が多かったですもんな。夜になっても,道に水まいて,床机を出して,碁したり将棋をさしたりして,結構賑やかなもんでしたな。

 

藤原うちらのへんの二本松町,戦前は96軒ありました。戦時国債の割り当てなんかの軒数やったもんで,覚えているんですが,今では,50軒になっています。半分ですな。住福連合会の分担金収入も,世帯数が減り続けている分だけ,減っていますので,困ったことやと思ってます。

 

国枝私の子供時分は,下立売通の商店街や出水通にもたくさんのお店があって,結構はやっていたように思うのです。やっぱり,このへんの人口が,今と比べもんにならへんくらい多かったんですな。
小学校くらいのときのこと,なんか覚えてはりますか。

 

山中1年生やったと思うのですが,いまの千丸の交差点の東南角に,見せ物小屋が立ちまして,大っきな大蛇がいたのを覚えていますなあ。他にも,なんやかんや,いたんでしょうが,それだけ覚えています。あれは,確か学校から行ったんでっせ。

 

国枝話をがらっと変えて恐縮なんですが,藤原さんとこも,出水では旧家とお聞きしてるんですが。

 

藤原江戸時代の中頃に今の亀岡から出てきて,代々,金物屋をしていたんです。私のとこは織屋をしてまして,父が結婚したんが大正10年ですけど,その頃でも休みは1日と15日だけ,夜10時頃まで仕事という毎日やったようですよ。

 

国枝織屋さんやったら,戦後のガチャマン景気というのが,一番景気の良かった時代と思ってたんですが。

 

藤原大正時代も結構良かったようですよ。儲けさせてもうた分で田圃なんかを買うてますな。その頃の売渡書を見てみますと,3000坪を8千円で買うてますね。織物業は昭和15年の7・7禁令で奢侈品が製造禁止になって失業状態になるんですが,小作料とか貸家の家賃とかで,なんとかなってたんでっしゃろな。それが,敗戦後の財産税と農地開放とで元の木阿弥。

 

山中あれは,きつかったですな。うちは,農地法の対象外の山林が多かったのと,土地も公用に貸してあったのが助かりました。

 

藤原昭和30年頃に,頼まれて工場の一部を「東洋電具」という電気部品の製造会社に貸しましたが,その会社がみるみる大きくなりまして,織機を全部ほうりだして,工場全部を貸してました。それが,34年に夜明けに火事を出しまして全焼。この辺では,めったにない大きな火事でしたな。それで,西院に移転して,今の「ローム」になったんです。だから,うちの隣の駐車場が「ローム」の発祥の地なんです。

 

国枝へえ,そんな話,初めてお聞きしました。あの「ローム」は出水出身なのですか。知りませんでしたなあ。ところで,戦前の家主さんというのは,どうやったんですか。

 

藤原昭和の初め頃でいわゆる借家だち,今で言うたら,2DKですか。そんな家が800円くらいで建ちました。そのくらいの貸家やったら,家賃が7円50銭はもらえて,10年たったら元がとれたんですな。

 

山中その頃の家賃は5円,7円,10円が相場。それに銭がついてましたがね。10円もだせば,ええ家を借りられましたで。

 

国枝借りる人,いわゆる,借家人をどうして捜したはったんですか。今みたいにチラシ広告があるわけじゃなし。

 

藤原小さな「貸家有り」の駒形の看板を路地の入り口につるしとくだけで,けっこう,用はすみましたね。

 

山中出ていかはったら,すぐ,代わりの人が入ってきましたな。その頃の町の中ちゅうのは,人の出入りがわりとあったんと違いますか。そやから,貸家の空き家というのは少なかったと思いますよ。

 

藤原私とこに入ってきた小作米は,山中さんとこで精米してもらってたんですが,山中さんとこの,あの,大きな倉庫は何俵くらい入ったんです。

 

山中いっぱい積んで2千俵入りました。上は人がやっと動けるまで積みましたから。

 

藤原2千俵も入ってたんですか。

 

国枝どこにあったんです,その倉庫は。

 

山中今でもありまっしゃんか。この横の通り下がった西側に。あれでも,2棟続きやから結構広いもんです。

 

藤原下にトタンが敷いてあったんで,お米の無いときは絶好のローラースケート場。それに,キャッチボール場。よう,遊ばしてもらいました。

 

国枝油屋さんというより,大地主さんだったんですね,山中さんは。

 

山中ご先祖さんが,人様の持てあまさはった地面を,ちょっとずつ手に入れてくれはったんですな。欲があったような,なかったような。今の山城高校の地面は,先々代の平吾のときに府に寄付してますし,明治の初めには二条城が5万円で売りに出されたのを買う話もあったようで。買うてたら,私,今ごろ二条城の城主でっせ。油屋は看板です。戦前は,お寺やお宮さん,それに,お仏壇のお灯明が主でしたから,儲かるというようなもんでおへん。戦後すぐは油を1升持っていったら,酒2升に交換できたという結構なときもあったんですが,今は酒が1升2千円もするのに,油はたかだか300円か400円。私とこでも油屋だけやったら人件費や光熱費やいうて,毎月,百万くらいの赤字になってんのと違うかいな。それやったら,戸を閉めて,中で油売ってるほうが,損せんで……。

 

藤原アハハ,おあとがよろしいようで。

 

国枝それでは,これでお開きに。長時間ありがとうございました。

 

 

追記
 鼎談の冒頭に出てくる辰巳公園と中村公園。公園の名前は辰巳町と中村町からだとすぐにわかるが,その前はなんだったか。気になる話なので近くにお住まいの松本三郎さん(昭和4年お生まれ)にお聞きしてみると「辰巳公園は,古い西陣警察署の道場と留置場のあとにできた公園。喧嘩して,あの留置場に入れられたし覚えてる」ときっぱり。
 「中村公園な。ちょっと待ってや」と,公園の近くにお住まいの小学校の同窓生に電話をして聞いていただく。
 その結果,「下立売通の南側にあった煎餅屋さん,散髪屋さん,自転車屋さん,薪炭屋さん,などと,東隣の路地の西側の並びと,南からの道の突き当たりの何軒かの強制疎開の跡やと思うな」ということになりました。
 また,藤原さんの話の中で,丸太町通が見えたとの話の中川さんは,前出水住福会長の中川義太郎さん。明治40年1月のお生れだから,もう90歳を超えておられる。11月のある日,お宅にお訪ねする。
 「学校の南側には,まだ畑があって,丸太町が見えて,その南側に刑務所の官舎があって,きこくの垣根があって,溝がながれてて,畑があって,囚人が働いてましたな」「映画のスターの草分け,目玉の松っちゃんは,そこの千本出水を東に入った南側に住んでましたんやで。千本座を根城にしてた役者や,舞台回りの仕事をする人が,このへんに,ようけ住んでましたんや。その人らが,日本の映画を始めはったんでっせ」
 「爆弾が落ちたときは,空襲警報が鳴ってたのに,裏の庭の畑を耕してましたんや。そしたら,隣の壁を突き破って手のひらくらいのギザギザの破片がとびこんできましてな。それからは,警報がなったら,防空壕へ一目散ですわ」 などなど,いろいろなお話をしていただきました。みなさんまだまだ,お元気です。

 

 平成11年残暑の厳しかった初秋のある日の午後に収録。(文責 後藤)

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