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西陣の発展と西陣焼け

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2010年12月6日

 

 上京には,もう一つ京都を代表する大きな顔があった。京都の基幹産業・西陣機業である。西陣は,中世以来,日本を代表する高級織物生産地として,また,日本最大の同業者町として栄えていた。とくに,近世は幕府の保護を受け,海外から輸入される生糸のほとんどを消費し,輸入生糸が不足した際には,和糸が優先的に供給された。また,西陣が窮乏すると,数千貫の銭や数千石の米なども貸与された。こうした保護政策が,経済的変動の多い機業を助け,発展を促した結果,16世紀後半に21町といわれた機業地は,17世紀末には実に160余町,織機数は7,000余機にまで拡大された。
 明暦3年(1657)正月の江戸の大火は,西陣織の普及に大きな役割を果たした。江戸開府より5十数年,人々の生活水準は著しく向上し,奢侈の風が広まっており,大火後の衣服需要が西陣に殺到したのである。もちろん,西陣機業でも技法改良などによる多品種生産が行われ,合理的な分業体系も確立。こうした技術的発展が西陣織物の高級イメージをさらに盛り上げた。
 しかし,こうした商品経済の発展は,金糸縫や総鹿子,寛文小袖の流行など文化的繁栄を促し,光琳や友禅斎などの芸術家を生み出したが,反面,幕府や諸大名に深刻な経済的困窮をもたらした。その結果,幕府は再三にわたり美服の禁止令を出すが,一度贅沢を味わった民衆は,「御法度は表向きは守り,内証は鹿子類様々調え」などと,その風潮は改まらなかった。
 こうした西陣の発展に一つの影を落としたのは,享保15年(1730)の大火「西陣焼け」である。6月20日午後2時頃,上立売通室町西入ル上立売町北側の大文字屋五兵衛宅台所から出た火は,瞬く間に家中に広がった。折からの烈風で火は南北両方へと燃え広がり,辺り一面火の海と化した。風が東風に変わると,火は燃え盛って西方へと進み,午後3時過ぎ,一条浄福寺と北野松梅院に飛び火し,火の手は3カ所になった。さらに1時間後には三つの火が一つに繋がり,5時過ぎには西陣一帯をほとんど焼き尽くし,21日の早暁,ようやく鎮火したのである。
 この大火によって,室町通以西,北野天満宮以東,一条通以北,廬山寺通以南の西陣を中心とした上京西北部は大被害を受けた。類焼町数134町,公家屋敷4,武家屋敷1,寺社67,民家等3,810軒が焼失し,死者80人,負傷者は千数百人に達したという。なかでも,西陣は160余町のうち,108町,3千数百軒が被災し,3,012機を失って壊滅同様であった。幕府もこれを見過すことができず,公家衆にはただちに金子を送り,西陣108カ町には,拝借米5,000俵を下げ渡した。中京,下京の人々も罹災者に炊き出しを行い,米,銭,煙草などが配給された。近郊農家からも穀物や野菜などの救援物資が次々と運び込まれたという。
 しかし,機業の焼失はそこで働く従業員たちも職を失うことである。復旧に手間取るほど蓄えのない彼らは生活に困り,離散していった。8代将軍吉宗による「享保の大改革」が行われ,桐生,長浜,丹後など地方機業の勃興が著しい時期だっただけに,この西陣焼けは西陣機業に想像以上の打撃を与えた。

 

「西陣焼け」による罹災地図

「西陣焼け」による罹災地図

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