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京都市山科区

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やましなを歩く栗栖野周辺と中臣遺跡

ページ番号12080

2007年11月7日

稲荷塚古墳と「忠臣群集墳跡」碑 折上神社境内

稲荷塚古墳と「忠臣群集墳跡」碑 折上神社境内

周辺地図

周辺地図
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坂上田村麻呂墓

 

 区役所から新十条通を西へ進み、山科川を越え左前方に見える森は、勧修小学校の校歌にも歌われている「田村の森」。坂上田村麻呂(811年没)の墓があることから名付けられた。田村麻呂は桓武天皇に仕え、征夷大将軍として活躍した人物。勅命により甲冑兵仗(かっちゅうへいじょう)を身に付け、立ったまま葬られたと伝えられている。参道脇には、明治28年建立の顕彰碑がある。

 

花山稲荷・良雄断食石・栗栖野・田村将軍墳

花山稲荷・良雄断食石・栗栖野・田村将軍墳
拾遺都名所図会(1787年)

 

 

中臣遺跡

 

 中臣遺跡と名付けられたこの遺跡は、山科川と旧安祥寺川が交わる場所から北方、栗栖野丘陵一帯に広がり、その真ん中を新十条通が横断。昭和44年に発見された後、発掘調査が続けられている。

 

 弥生時代後期から何世紀にもわたり大集落があったと考えられ、多数の竪穴住居跡、掘立柱(ほったてばしら)建物跡等が見つかり、また時代をさかのぼって旧石器時代の遺物も発見されている。しかし、現在は西金ヶ崎公園内に遺跡碑があるのみ。

 

 遺跡の南端、山科勧修寺公園西南隅には、昭和47年設立の山科南部土地区画整理組合による「まちづくりの碑」(平成8年建立)がある。周辺の無秩序な宅地開発を改善するためとの組合設立趣旨が刻まれているのが印象的。

 

 

中臣十三塚古墳群

 

 遺跡内には「中臣十三塚」といわれる多くの古墳があった。しかし、現在墳丘を残している古墳は、折上神社境内の「稲荷塚古墳」(円墳)と、「田村の森」西方にある「宮道古墳」(円墳)の2つにすぎない。「宮道古墳」の前には、「宮道朝臣列子墓」の碑があり、墳丘は竹に覆われ空堀に囲まれている。勧修寺流藤原氏の祖・高藤(900年没)の妻で、高藤との間に醍醐天皇の生母胤子(たねこ)を生んだ列子の墓と伝えられている。

 

 

周辺の神社

 

 「中臣神社」は宮道古墳の西側にあり、稲荷神、中臣氏祖天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭る。祭祀年代や古代豪族中臣氏との関係は明らかではない。

 

 「折上(おりかみ)神社」は「伏見稲荷大社奥宮」「栗栖野稲荷」として知られ、境内には「稲荷塚古墳」がある。

 

 折上神社東側の「朝日神社」は,江戸時代中期、久世郡寺田村、紀伊郡富森村、下鳥羽村の人々が栗栖野に移住開拓し、元文5年(1740年)に祭られた神社。

 

 北へ約500メートル歩くと「花山稲荷神社」があり、大石良雄が寄進したと伝えられる鳥居や良雄断食石、血判石、本殿背後に「花山神社古墳」(円墳)がある。

 

中臣神社

中臣神社

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