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京都市山科区

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やましなを歩く東海道4御陵

ページ番号11923

2007年11月7日

 

天智天皇山科陵

 

 旧東海道日岡峠を東に下って、平坦になる辺りには、かつて一里塚があった。

 

 そのまま東へ向かい、三条通に出ると、天智天皇陵参道入口が見える。入口左側には、天皇が漏刻(水時計)をつくり時刻制度を定めたことにちなみ、昭和13年6月に京都時計商組合が建立した垂直型日時計がある。

 

 その昔、天皇陵あたりを御廟野と呼び、江戸初期の地誌『出来斎京土産(できさいきょうみやげ)』には、「此の野への名を忘れなば犬の声只ひゃうひゃうとひろき御廟野」とある。天智天皇は671年12月3日、大津宮で崩御。御陵の土地が選定されたが、壬申の乱が起こり、天智天皇の死後28年たった699年に、山陵修営官が任命された。

 

天智天皇陵

天智天皇陵

 

 

 『延喜式』(平安時代初期の法令集)には「兆域東西十四町南北十四町(約千五百メートル四方)」とあり、現在よりかなり大きい土地を占めていたようだ。

 

 『万葉集』の額田王の歌「やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は去き別れなむ」は良く知られている。

 

  現在、墳丘等は見ることができないが、「天智天皇山科陵の墳丘遺構」(『書陵部紀要』39号・昭和63年)掲載図からの推定では、墳丘は上円下方墳で、下段方形部は1辺約70メートル、上円部は直径約40メートル、高さ約8メートルで、上円部は截頭八角錐(せっとうはっかくすい)とある。

 

 『聖蹟図志(せいせきずし)』(1854年)には、天皇陵と参道景観を中心に、東海道が描かれ、「北西粟田口・蹴揚三条通・亀の井水・日岡村・一里塚・御陵村・大津道往還・牛車道」等が記され、右方には「竜徳山妙応寺」と「天皇昇天鏡ヶ池古跡」が描かれている。

 

 『水鏡』(鎌倉時代)等には、ある日天皇が馬に乗り山階に行幸、山林に入り行方不明となられ、沓のみ残されていたのでその場所を御陵と定めたとある。『拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)』(1797年)には、「鏡池、寺内にあり、天智帝登天し給ふ時、此池水に玉体をうつし給ふとなり。霊水寒暑に増減なし」とあるが、現在、池は消滅している。

 

 三条通の喧騒から離れ、天皇陵の中に歩を進めると、静まり返っていてまるで別世界である。

 

日時計碑

日時計碑

天智天皇陵「聖蹟図志」(1854年)

天智天皇陵「聖蹟図志」(1854年)

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