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やましなを歩く奈良街道4小野

ページ番号12035

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2007年11月7日

はねず踊り

はねず踊り

周辺地図

周辺地図
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隨心院

 

 小野に入り、隨心院へと向かう。寺の周辺には、大きなカヤの木を見ることができる。これは、小野小町を慕う深草少将の百夜通(ももよかよ)い伝説で知られるカヤの大木で、現在では数本しか残っていない。隨心院は、六歌仙の一人である小町の邸跡と伝えられ、文張(ふみはり)地蔵尊、小町座像、化粧井戸、文塚、小町歌碑等を訪ね、絶世の美人と伝えられる小町をしのぶことができる。

カヤの大木 小野西浦町

カヤの大木 小野西浦町

 

 当寺は、平安時代中期、仁海僧正が開基した曼茶羅寺に始まり、承久・応仁の乱で焼亡したが、後に再建された。桃山・江戸時代初期の建物や木造阿弥陀如来坐像(平安時代、重文)、木造金剛薩た(「た」は土へんに垂の字。)坐像(鎌倉時代、快慶作、重文)等多くの文化財がある。境内は国の史跡。

 

 境内梅園前では、3月末、はねず色(薄紅色)の小袖を着て、小町や深草少将に扮した少女が、風流傘(ふりゅうかさ)のまわりを踊る「はねず踊り」が晴れやかに行われる。

 

 少し醍醐へと入ってみよう。約300メートル東へ進むと、住宅地の中に「醍醐天皇後山科陵」がある。醍醐天皇(930年没)の母は、藤原高藤(勧修寺流藤原氏祖)の娘胤子(たねこ)である。勧修寺と関わりの深い天皇で、菅原道真、藤原時平を用い政治を行った。ここから南へは、朱雀天皇陵,醍醐寺とたどることができる。

 

小野隨心院 捨遺都名所図会(1787年)

小野隨心院 捨遺都名所図会(1787年)

 

 

旧東海道線と旧山科駅

 

 京都・大津間の鉄道は、明治13年7月開通し、大正10年8月に、現在の東海道線に付け替えられるまで、線路は、ほぼ現在の名神高速道路にあたり、奈良街道と並行、また交差して走っていた。当初は馬場(膳所ぜぜ)、大谷、山科、稲荷、京都駅のコースをとり、旧山科駅は現在の山科川と名神高速道路とが交わる辺りの東側、小野小学校北にあった。現在は、「旧東海道線山科駅跡」の小さな碑が建てられているのみで、昔の姿をしのぶすべもない。

山科駅跡碑

山科駅跡碑

 

 

 徳富蘆花の小説『不如帰(ほととぎす)』(明治33年刊)に、この山科ステーションでの一場面が描かれている。明治28年、病弱の主人公、浪子(なみこ)は、父と共に京名所や岡崎で開催されていた博覧会を見て、宇治方面を巡った後、山科駅から東行の列車に乗車する。ちょうどその時、西行列車に、戦地に行く夫武男を見つけ、「狂気の如く、浪子は窓の外にのび上りて、手に持てる菫色(すみれいろ)の手巾(はんけち)を投げつけつ」とある。

 

 

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