やましなを歩く勧修寺とその周辺
ページ番号12056
2007年11月7日
勧修寺
勧修寺
隨心院から西に向かい勧修寺の門前へと出る。この道は、奈良街道を小野で別れ、勧修寺を通り、深草・伏見へと向かうもので、豊臣秀吉によって開かれたと伝えられている。
勧修寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が創建したもので、宇治郡の大領であった宮道弥益(みやじのいやます)の邸跡と伝えられている。
『今昔物語』には、そのいきさつが記されている。藤原高藤(ふじわらのたかふ)という若者が鷹狩の際に雷雨に遭い、宮道邸で一夜を過ごした。高藤は弥益の娘、列子(つらこ)と結ばれ、胤子(たねこ)をもうける。胤子は成長し宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母となった。
境内には平安時代の姿をよくとどめる庭園や、書院(重文、江戸時代)宸殿・本堂(江戸時代・京都市指定文化財)がある。
藤原定方墓
勧修寺の南に位置する鍋岡山(なべおかやま)の西麓に、百人一首の「名にしおはば あふ坂山の さねかづら」の歌で知られる三条右大臣藤原定方の墓がある。定方は高藤の次男、山頂には高藤の墓碑もある。
近くに、宮道氏の祖神を祭る宮道神社や、勧修寺の鎮守として応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭り、仁寿3年(853年)の創建と伝えられる八幡宮(吉利具八幡宮)がある。八幡宮の社殿は、元禄8年(1695年)再建(京都市指定文化財)。名神高速道路に沿い、西に1キロメートルほど行くと、藤原胤子陵がひっそりとたたずんでいる。
藤原定方墓 享保8年(1723年)建立
勧修寺 捨遺都名所図会(1787年)
仏光院
仏光院は、大石順教尼(昭和43年没)が、昭和22年に創設した寺院。順教尼の本名は大石よねといい、もとは大坂堀江の芸妓であったが、明治38年16才の時、養父の起こした殺傷事件(堀江6人切り)で両腕を失った。その後、昭和11年、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設。境内には草庵跡や、吉井勇の歌碑「そのむかし臙脂(えんじ)を塗りしくちびるに筆をふくみて書く文ぞこれ」があり、筆を口にくわえて書画にも精進された順教尼を偲ぶことができる。
明智光秀塚
勧修寺門前から500メートル程南に行くと、光秀の胴塚がある。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀は、勝龍寺城から間道をとり、伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、小栗栖の里にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えられている。小栗栖の明智藪にある碑には、「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により」云々と記されている。
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