中京の山鉾 -山鉾の魅力細見-
ページ番号16347
2013年3月22日
◆菊水鉾(きくすいぼこ)
元冶元年(1864)(幕末)の兵火で焼失しましたが、一人の有志の熱意が実を結び,昭和27年に再興された鉾です。装飾品は日本画家の三輪晁勢、工芸染織家の山鹿清華、皆川月華、皆川泰蔵、金工芸の小林尚など昭和の匠たちの協力を得てすべて新調されました。その後も年を追うごとに装飾の数が増え、その充実の素晴らしさで「昭和新鉾」の壮麗さを誇っています。
山の趣向から「筍山(たけのこやま)」とも呼ばれる山です。極彩色豊かな山鉾の中で、唯一肉筆墨画の見送で異彩を放っている山として有名です。この見送は昭和15年に八坂神社の氏子だった竹内栖鳳が喜寿の祝いで筆をとった作品です。千鳥、鳳凰、山雀(やまがら)、翡翠(かわせみ)、孔雀など15種類の鳥を表した欄縁金具は、栖鳳の師幸野楳嶺の下絵で、明治、戦前を代表する画家の競演を見ることができます。
安産の神、神功皇后が御神体であることから、山鉾巡行のくじ順が早いとその年のお産は軽いなどといわれ、くじ順を身重の女性が気にする山です。安産御礼として女院や公卿の姫君などから寄進された衣装には名品が多いため、「占出さんは1番の衣装持ち」との評判も高くなっています。「36歌仙図」水引、「日本3景」の前掛、胴掛など優れた懸装品(けそうひん)を持ち、染織品に特徴のある山です。
明治中期に胴組や天井、屋根などが大改装され、金具類も順次整備された鉾です。そのため、明治の四条円山派の画家、幸野楳嶺下絵の破風正面の3羽の丹頂鶴など明治以降の工芸装飾が楽しめる鉾ともいえます。また、昭和4年から稚児に替えて、鉾上で稚児舞ができる唯一の操り稚児人形「三光丸」を乗せ、人形ならではの愛らしい舞いも評判の鉾です。
八坂神社からの清祓いとともに六角堂から法印の祈祷も行われ、宵山には聖護院の山伏たちの巡拝もあり、神前に供える三宝も仏式のものという、明治初年の神仏分離以前の姿を見ることのできる山です。繭から糸を紡ぎ、布を織り上げるまでを紹介した機織図の水引はこの山が誇る珍しい品です。また、前掛、胴掛の中央に飾り房を付けているのもこの山の特徴です。
18世紀初めの正徳年間(江戸中期)に山を改造し、両側と後面を透塀(すかしべい)とし、真松の代わりに若松12本を塀内に並べ、社殿の屋根を大きくし山胴を廃し鳥居内に榊一対と紅梅2本を立てるという独特な山を考案しました。前掛は16世紀ベルギー製の毛綴を用いていましたが、昭和56年から中国刺繍「太湖岩鳳凰図」に替えています。異色な設計の山本体が見どころです。
昭和56年に約100年ぶりに復活した山です。前掛、胴掛は友禅作家羽田登喜男の手になる色彩豊かなものです。見送は皆川月華の豪快な作品が使われています。特徴は山鉾の中で唯一見られるからくり仕掛けで、鯨髭をバネに用いた精巧な糸あやつり木彫の大かまきりは、首や手鎌が動き、羽を広げ、御所車は車輪が回転します。そのユーモラスな動きは見て楽しいものです。
文和2年(1353)(南北朝)に創建され、現在後の祭の先頭を行く曳山です。この山を有する六角町には、古くから三井家、松坂屋などの豪商も居住していたため、緻密な刺繍の見送や水引、飾金具などの豪華な装飾品を数多く所有しています。破風の彫刻は天保4年(1833)(江戸後期)片岡友輔作のもので、欄縁や柱の金具細工の精巧さと相まって山を一層華麗なものに見せています。
山鉾巡行の最後を行く曳山です。諸病を防ぐといわれて山の後方には柳の大枝を垂らして巡行します。下水引は土佐光孚の下絵による「舞楽図」刺繍で、見送りは現在、日本画家加山又造下絵による「龍王渡海」を使用しています。前掛に使用していた「異无須織」と呼ばれるペルシャ絹緞通は、世界にわずかしか現存しない金銀モールを織り込んだ17世紀の華麗な名品です。
弁慶と牛若丸が五条大橋の上で戦う姿を表しています。この山には山籠も真松もなく、山の上を舞台として風流の趣向を見せていた時代の形式を伝えています。前掛は昭和58年から富岡鉄斎の「椿石図」写しを使用しています。胴掛は円山応挙下絵とされる「加茂祭礼行列図」綴錦です。舁山は普通眺めるのに最もよい角度がありますが、この山は四方どこから見てもよい山です。
龍門の滝を登った鯉は龍になるという中国の伝説を基にした立身出世の金言「登龍門」を表している山です。木彫の大きな鯉は左仁五郎作と言われ欄縁やその他の金具類はすべて波涛文に統一されています。この山の一番の自慢は、その全面を飾る16世紀ベルギー・ブリュッセルで製作されたタペストリーで、すべて国の重要文化財に指定されています。
平家物語の宇治川の合戦の1場面をとらえた山です。その特徴ある所作を表現するため、御神体は人の形をした自然木を骨組みに使い、上の市来法師の手を浄妙の頭にくさびで固定しています。胴掛はこの山の異名の由来ともなる珍しいビロード織のものを用いていましたが、現在は長谷川等伯画のものに替えています。他に重文指定の黒韋縅肩白胴丸(くろかわおどしかたじろどうまる)鎧も所蔵しています。
この山の御神体は大伴黒主です。自然木の杖によりかかりまぶしそうに顔をしかめて桜の花を眺めている姿はどこか微笑ましいものがあります。前掛は「萬暦帝龍王図」錦織で、胴掛は草花胡蝶文の綴錦です。見送は17世紀に中国で作られたものが2種類あり、毎年交替で使用しています。他にも中国明代に作られた旧前掛など優れた懸装品(けそうひん)を持っています。
山の上に修行僧の祖といわれる役行者を中心に、一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)の3体の御神体を安置しています。水引は「唐子遊戯図(からこゆうぎず)」綴錦、前掛は牡丹胡蝶文と雲龍文との3枚継ぎです。見送は「金地唐美人遊図(きんじとうびじんゆうず)」綴錦です。角房の飾金具は黒漆塗板に28宿の金具を打った独特なものです。欄縁は雲龍文の透高浮彫の細工が前面にびっしり施されたものでとても緻密なものです。
巡行中は能面をつけているので顔はみえませんが、御神体のミニチュアにより美しい顔立ちを推測することができます。御神体の姫の雰囲気にあわせてか、飾金具を中心に優美な趣の品が多いこともこの山の特徴です。特に昭和12年作の山鹿清華の欄縁金具は「山端和親」と題された秀作です。他に、中国で作られた優れた胴掛や古見送なども蔵する山です。
町内に祀られている八幡山をやまの上に勧請した山です。天明年間(1781~1788)(江戸後期)製作といわれる社殿は総金箔の精巧壮麗なものです。鳥居には左甚五郎作と伝えられる鳩が飾られています。欄縁は河原林秀興作と伝えられ、新旧の懸装品(けそうひん)とともに工芸装飾も注目される山です。また、海北友雪の祇園祭礼図屏風を蔵し宵山に展示することでも知られています。
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