山鉾の魅力細見・山鉾由来記
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2013年3月22日
◆長刀鉾(なぎなたぼこ)
山鉾の中で、最も早く創建された鉾で、その時期は記録から応仁の乱以前の嘉吉元年(1441)といわれている。山鉾町のうちで八坂神社に最も近いところにあったことなどから、古来くじ取らずで毎年巡行の先頭を進む鉾である。
また、疾病邪悪を祓う長刀にまつわる奇瑞伝説が数多くあることでも知られている。
そのいずれもが、疾病が流行した折、この長刀を病人に拝戴させたところ平癒したとなっている。
宗近作の長刀は宝物として保管され、現在は模造品を使用。
◆函谷鉾(かんこぼこ)
中国戦国時代、斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が泰の国を逃れ函谷関(かんこくかん)に着いたが、深夜なので門を開けてくれない。この関は早朝の鶏の鳴き声で開く規定なので家来に鳴き声をまねさせたところ、本物の鶏が和して鳴いたため、門が開き一行は逃げられたという有名な『鶏鳴狗盗(史記)』の故事が鉾命名の由来となっている。
鉾頭の三日月と山型は、山中の闇を表し、真木の中ほどの『天王座』には、孟嘗君(天王)が祀られ、その下に雌雄の鶏が取り付けられている。
◆鶏鉾(にわとりぼこ)
中国古代、堯の時代は天下がよく治まって太平が続き、訴訟用の太鼓(諫鼓【かんこ】)にも用がなくなり苔が生え、鶏が宿ったという『諫鼓』の故事にあやかり、理想の天下を希求して鉾の趣向にしたといわれているが、現在の鉾からその趣向は見いだせない。
鉾頭の三角形の中の円形は、鶏卵が諫鼓の中にあるという意味で、鶏鉾の名の象徴になっているともいわれているが、はっきりしたことは不明である。
真木の『天王座』は船形で、海上の守護神である住吉明神が祀られている。
◆月鉾(つきぼこ)
真木の中ほどの『天王座』には月読尊を祀る。像は右手に櫂を持ち、月を仰ぐ姿で船に乗っている。月読尊は古事記によると伊弉諾尊の右眼から生まれ、夜の国の支配者になった方。
天明の火事では町は焼けたが、人々の努力で鉾は無事だった。
また、元治元年に鉄砲焼けの戦火に見舞われたが、月鉾は真木1本失っただけで、屋根裏絵画など優れた工芸装飾品が数多く今に残っている。
古い鉾頭と天王のもつ櫂には「元亀4年大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。昭和56年から18金製の鉾頭を用いている。
◆船鉾(ふねぼこ)
船鉾は応仁の乱以前より2基あり、この鉾は先祭(さきのまつり)のトリをつとめた『出陣の船鉾』といい、元治元年(1864)に焼けて現在焼山になっている後祭『凱旋船鉾』と区別している。
古事記や日本書記に書かれた神功(じんぐう)皇后が妊娠中にもかかわらず、皇子が凱旋まで産まれぬように祈願して、男装で海戦して勝利し、皇子をお産みになったという神話によって鉾全体を船の形にしている。
皇后の御神体は安産の神とされ、岩田帯を巻いて巡行し、巡行の後で妊婦に授与される。
◆岩戸山(いわとやま)
古事記、日本書記に記される「国産み」と「天の岩戸」の2つの神話を併せて趣向にした曳山である。
御神体は3体で、白衣装で胸に鏡をかけた天照大神(あまてらすおおみかみ)、その脇に安置された手力男命(たじからおのみこと)(戸隠大明神)は白衣に唐冠(とうかん)をかぶり、屋根の上には太刀を付け天瓊矛(あまのぬぼこか)を突き出した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を安置している。
鳥居には常世(とこよ)の国の長鳴鳥(ながなきどり)(鶏)がとまっている。前後軒裏に描かれた鶺鴒(せきれい)は、国生みの方法を教えた鳥と、神話一色の山である。
◆保昌山(ほうしょうやま)
この山の主人公である平井保昌(やすまさ)は藤原大納言元方の孫、致方(むねかた)の子で武勇に優れ、和歌にも堪能であり左馬(さまの)頭、丹後、大和、摂津などの守を歴任し、藤原道長に仕えた人物である。
保昌が官中の女官に恋をし、女官の紫宸殿の梅を手折ってほしいとの願いで、夜陰に宮中に忍び入り、梅を手折って無事に役を果たしたという話がこの山の趣向である。それゆえに『花盗人山』と呼ばれている。その女官、後に保昌の妻になったのが、和泉式部である。
◆郭巨山(かっきょやま)
中国の史記24孝の1人である郭巨が母に孝養を尽くすため「子は再び得べし、母は複得べからず」とわが子を山へ棄てようとしたところ、土中から一釜の金を得た。一札あって『天孝子郭巨に賜う、官も奪うを得ず人も取るを得ず』と記されていたという話を山の趣向にしたもの。
御神体の郭巨は、金の釜を発見した驚きの表情で鍬を持っている。童子は右手に唐団扇(とううちわ)、左手に紅白の大輪の牡丹を持つ。『釜掘り山』の名で親しまれてきた山である。
◆伯牙山(はくがやま)
中国周代の琴の名手伯牙が、真に自分の琴を解してくれた友人が亡くなったことを嘆き、琴の弦を断って再び弾くことがなかったという『禁断の友』の話を趣向したという説と、晋の時代の琴の名手が、武陵王の召命を受けた時、一介の楽人として召されるのを潔しとせず、琴を割った故事によるという説がある。
御神体は手に斧を持ち、琴を今にも打ち破ろうと見おろしている。
維新前は『琴破山』と呼ばれたが、『保昌山』『郭巨山』と同様に明治4年に改名された。
◆芦刈山(あしかりやま)
平安時代の『大和物語』を原典とする謡曲『芦刈』より趣向された山。
貧乏がもとで別れた妻が都へ上がって宮仕えをし、乳母となって幸福に暮らしていたが、別れた夫が気にかかり、会いに行くと、男は落ちぶれて刈った芦を口上面白く売って暮らしていた。男は恥じて蔭にかくれて1首詠み、女は返歌と共に衣類を与えたという話である。
御神体は老翁の姿で能衣装に水衣をはおり、懐に中啓、右手に鎌、左手に芦を1本持ち、芦原に立つ姿を表している。
◆油天神山(あぶらてんじんやま)
天神山は古くから2基あるが、下京区油小路通綾小路下ル風早町のこの山は油小路通にあるところから油天神山と呼ばれる。また勧請(かんじょう)の日が丑の日であったことから別名「牛天神山」ともいわれている。過去に天明の大火(1788)、元治の兵火(1864)と2度の災難に見舞われているが、人々の努力によりその都度復興し現在に至る。特に天明の大火の時は、後に町名の由来ともなった風早家という公家が復興に力を尽くしたといわれ、社殿には風早家伝来の木彫彩色天神像を安置する。
◆木賊山(とくさやま)
世阿弥作の謡曲『木賊』から着想された山。
生き別れた父を探す松若は、故郷信濃国園原で木賊(砥草。物を磨くのに用いられる植物)を刈る老人の家に泊まる。老人は、別れた子に巡り会うがために旅舎を作り旅人を泊めていると語り、松若に酒を勧めながら我が子の好きであった小謡曲舞を、子を偲びつつ舞う。実は老人は松若の父であった。
御神体は、子を思い1人寂しく木賊を刈る老人の悲しみを深く表現した名作で、桃山時代に作られたといわれている。
◆太子山(たいしやま)
聖徳太子が四天王寺を建立するため、自ら用材を求め山城国に来た時、清水の湧くのを見て浴みする間、念持仏の如意輪観音像の厨子をたらの木に懸けていたら尊像が樹から離れなくなってしまった。そこで太子はここにお堂建立を思い立ち、紫雲たなびく大杉を建材として尊像を納める六角堂を建てた。現在の六角堂頂法寺の由来である。
太子山はこの伝説を題材に作られており、この山だけは真木に杉を立てている。御神体は白装束に着た少年時代の聖徳太子をモチーフに作られている。
◆白楽天山(はくらくてんやま)
唐の詩人、白楽天が視察官として西湖の北の山に赴き、老松上に住む道林(どうりん)禅師を訪れて問うた。「仏法の大意如何に?」
道林禅師は「諸悪莫作 衆善奉行(善いことをせよ。悪いことはするな)」と、はぐらかすような答。
白楽天は半ばあきれて「そんなことは3つ子も知っています」。「左様。しかし80の老翁でも行いがたいことなのだよ」。
白楽天は道林の徳に感服して帰ったという。
この問答が山のテーマで、山上には道林禅師と白楽天が立っているが、脇役の白楽天が山の名になっているのが面白い。
◆綾傘鉾(あやがさぼこ)
綾傘鉾は今宮のやすらい祭の花傘と似た形式で、平安時代の傘鉾の姿を残すものである。
天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されて巡行に参加したことがあるが、本来は大きな傘を中心とした棒振り囃子の行列である。明治12年から5年間徒歩形式で巡行したが、その後途絶えていた。昭和48年頃から復興の機運が高まり、町内の人々の努力と壬生六斎(みぶろくさい)会の支援で54年に復興した。
◆四条傘鉾(しじょうかさぼこ)
綾傘鉾と同じく鉾の最も古い形態を残す傘鉾である。しかし以前は台車は付いておらず、人が持って巡行していた。傘鉾というのは、儀杖(ぎじょう)用の矛(ほこ)に傘を付けたもので、神事では神様の仮のお姿として祀られたという。
四条傘鉾も傘鉾と棒振り囃子の行列で巡行に参加するが、これは素戔鳴尊(すさのおのみこと)が大蛇(おろち)を退治したとき、鬼たちが主人を捨てて尊に従って北天竺まで送ったさまを表したものだといわれている。
~山鉾由来記 - 中京の山鉾~
◆菊水鉾(きくすいぼこ)
町内の金剛能楽堂内に古くからあった『菊水井』にちなんで名付けられ、鉾頭には金色の菊花を付けている。
稚児人形は菊水の井戸にちなみ菊の露を飲んで長寿を保ったという謡曲『枕慈童』(観世流や梅若流では『菊慈童』と称し、百年後の後日物語ともいうべき『枕慈童』がある)の能装束の舞姿である。
鉾の特徴である唐破風屋根は、綾傘鉾が江戸末に小型の鉾になった時、三十年間用いただけで他に例はない。この屋根形は平安時代に日本で生まれたが、異国風なので唐破風の名が付いた。
◆孟宗山(もうそうやま)
中国の史話、二十四孝の一人孟宗が雪中に筍を掘った話を趣向とした山である。
孟宗は中国三国時代(二二〇-二八〇)の江南の人。母の好物が筍だったので、老いて病の時に、孟宗あ母に筍を供したいと考えた。しかし厳冬だったので筍があるはずなく、竹林をさまよい竹を抱き嘆息していると、雪をついて四、五本の筍が頭をもたげた。歓喜して持ち帰り、母に食べさせたところ、病も治ったという話である。
御神体は左手に鍬を担ぎ、右手に筍一本を持って喜んで帰って行く姿を表している。
◆占出山(うらでやま)
神功(じんぐう)皇后が外征に際して、肥前松浦の玉島川で縫針を曲げて釣針とし、裳(も)の糸を抜いて釣糸として鮎を釣り、戦勝の兆にしたという、日本書記の話を趣向にした山で、『鮎釣(あやつり)山』とも呼ばれる。
神功皇后の御神体は顔に面を付け黒髪を長く垂れ、金の烏帽れを直したという、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)のを重ね、右手に釣竿を持ち、左手には釣り上げたばかりの四十cm程の鮎を持っている。
船鉾と同様に御神体に多くの岩田帯を巻いて巡行し、後で安産御腹帯として授与される。
◆放下鉾(ほうかぼこ)
『放下』とは禅語では『ほうげ』と読み妄念や物への執着を捨て、俗世を解脱する意である。
この鉾の創建当時、街頭で手品や曲手鞠などの修練を要する芸を見せて人を集め、仏法を解く『放下僧』という人々がいて町の人気者だった。この放下僧を鉾の趣向にし、天王座に放下僧を祀ったことからこの名で呼ばれる。
鉾頭は、日、月、星の3つの光が下界を照らす形を示し、その形が洲浜に似ていることから、『すはま鉾』の名で親しまれてきた鉾である。
◆山伏山(やまぶしやま)
御神体が山伏(修験僧)の姿をしているのでこの名で呼ばれる。江戸時代、民間信仰として修験道が盛んだったので、山の趣向に役行者山と共に用いられたと思われる。
山上は、昔、八坂の法観寺の塔が傾いた時、法力によってそれを直したという、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)の大峰入りの姿を表している。
左手に刺高数珠(いらたかじゅず)、右手に斧を持ち、腰には法螺貝を付けている。輪宝紋の付いた頭襟(帽子)、小袖に篠懸(被衣)、半切袴、聖護院より贈られた結袈裟(通常の僧の輪袈裟い当たる)のこしらえである。
◆霰天神山(あられてんじんやま)
永正年間(1504-1520)京都に大火があったが、時ならぬ霰が降って猛火がたちどころに消えた。あの時一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりとされている。
古来、社寺で火除護符を出しながら本元の社寺が焼失したという例が多いが、この霰天神山では、天明、元治の大火で隣町の山鉾が焼けてもこの町は被害を受けなかった。
山の縁起にちなみ、宵山では『火防(ひぶ)せ、雷除け』のお守りが授与される。
◆蟷螂山(とうろうやま)
『蟷螂の斧を以て降車の隧(わだち)を禦がんと欲す』という、中国梁時代の昭明太子の詩文集に出てくる言葉から着想された山である。
南北朝時代に、当時足利義詮軍と戦って死んだ当町在住の公家の武勇ぶりを、弱い者が自分の分や力を考えず、はかない斧を頼りに大敵に向かって盲信することを風刺した意味のこの一文になぞらえて趣向した。
この山は再三の戦火で安政4年(1857)を最後に巡行しなくなったが、町内の人々の努力が実り昭和五十六年から約100年ぶりに巡行することになった。
◆北観音山(きたかんのんやま)
応仁の乱前後から南観音山と隔年交替で巡行していた曳山(ひきやま)。当初は屋根がなく、舞台に真松を立て、御神体の観音尊を祀って囃子方を乗せた形であったが、寛政から天保にかけて現在のような形のものに造り替えた。
元治の兵火(1864)で大被害を受け、明治5年(1872)に復興したとき、今までくじ取らず後祭の一番だった橋弁慶山が北観音山に先頭を譲ったことにより、以後後祭の先陣を切ることになる。明治十二年に南観音山が復興し、それ以降両観音山の同時巡行が行われている。
◆南観音山(みなみかんのんやま)
山の御神体は北観音山と同じ楊柳観音(ようりゅうかんのん)像で、この2つの観音像は、鎌倉時代に現在の日光から持ってきたとされる。俗説で「北観音山の観音さまは男だが、南観音山は女性なので、南では宵山の夜更けに明日の無事を祈って「『あばれ観音』の行をなさる」と伝えられる。
もう一つの御神体、脇侍の善財童子(ぜんざいどうじ)は、説話によれば文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の指示を受け、南へ南へと53人の聖者を訪ねたという。この説話は、教えるという意味の言葉「指南」や東海道五十三次の語源となったとされている。
◆橋弁慶山(はしべんけいやま)
謡曲『橋弁慶』から趣向の山。有名な牛若丸と弁慶の五条大橋での戦いを表したものである。
狂言『鬮罪人(くじざいにん)』には、室町時代の町衆が祗園祭に出す山の趣向を相談する場面がある。当時は現在のように山鉾の趣向が固定しておらず、毎年決まったものを出す山と、その都度新しく創作する山があった。その中で前者の例として橋弁慶山が挙げられており、山鉾の中でも創建の早かった山であることがわかる。古来くじ取らずで明治四年まで後祭の先頭を巡行していた。
◆鯉山(こいやま)
江戸時代、この町の商家の夫婦が10両の金を貯めたが、夫が誤って湖に落としてしまった。裏長屋の鰥夫(やもめ)が鯉を買い料理すると腹の中から10両が。人のいい鰥夫は家主が金を落としたことを知っているので早速届けたが、その金はもはや私のものではないと家主は受け取らない。言い争いになり、結局訴え出てお裁きを受けることに。役人は2人の清廉さにいたく感激し、このことを後世に伝えるためにその10両で左甚五郎(ひだりじんごろう)に鯉を彫らせて祗園祭の山にしなさい、と決を下したという。
鯉山の由来は「登竜門」の説話から趣向したという以外にも、このような話が伝えられる。
◆浄妙山(じょうみょうやま)
平家物語から趣向。平等院に逃げ込んだ源氏は、追手を防ぐため宇治橋の橋板を取り外す。平家方の2万8000の軍勢は先陣が川に落とされ先に進むことができない。ここぞとばかりに源氏方の三井寺僧兵筒井浄妙(つついじょうみょう)が名乗りを上げ、細い橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来法師(いちらいほうし)がその頭上を飛び越え「悪しう候、浄妙坊」と前に進み出て先陣をとってしまったという。
山に祀る御神体2体は、その瞬間を誇張した形で表現しているのである。
◆黒主山(くろぬしやま)
大伴黒主(おおとものくろぬし)が桜の花を仰ぎ眺めている姿を表し、謡曲『志賀』にちなんだものとされている。大伴黒主は六歌仙の一人として、小野小町との歌争いなどで有名である。古今和歌集の序で貫之が「大伴黒主はそのさまいやし、いはばたき木おへる山人の花のかげにやすめるがごとし」と記しているので、これも構想の根拠となったのかも知れない。
昔の山は雰囲気を盛り上げるため真松(しんまつ)の山籠(やまかご)の他に添山(そえやま)を飾る場合が多かったが、黒主山にはそれが残っていて、桜の木が立てられている。
◆役行者山(えんのぎょうじゃやま)
中央の山洞に役行者、向かって右に葛城神(かつらぎのかみ)、左に鬼形の一言主神(ひとことぬしのかみ)を安置している。
鬼使いの秘術を有する役行者が、山と山との間に石橋を架けることを鬼たちに命じたところ、昼のうちは何もせず、夜だけ工事の物音がするので一向にはかどらない。問い質すと、一言主神に指導してもらっているが、この神は姿が醜いので夜だけしか出てこないのだという。行者は怒って一言主神を葛城の谷へ呪縛したという。
山はこのような伝説に基づいてい作られたといわれている。
◆鈴鹿山(すずかやま)
伊勢国鈴鹿山で道行く人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現『瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)』(せおりつひめのみこと)の話を趣向した山。
瀬織津姫尊の御進退は、金の烏帽子に白繻子(しゅす)雲龍文小袖、緋精好大口(せいこうおおぐち)袴、紫地金立涌か巴(たてわくかともえ)文金襴の表着を着け、腰に錺太刀、手に大長刀と中啓を持っている。
後の山籠には、赤熊(しゃぐま)で象徴した赤鬼の首が置かれる。山に立つ松には、鳥居や宝珠などが描かれた小絵馬を多く付ける珍しい山で、巡行後に盗難除けの護符として授与されている。
◆八幡山(はちまんやま)
応仁の乱以前より文献にその名が見られ、延宝年間(1673-1680)に描かれた絵により、鳥居に鳩がとまっている今とほぼ同じ型の山だったことがうかがえる。
八幡信仰は古くからあり、他の山鉾でも祇園の牛頭天王(ごずてんのう)に関係のない神を祀ったりしているので、趣向の一つとして当時の人々はこだわっていなかったと思われる。
八幡宮は普段は町会所の庭に祀っているが、金色の社殿は土蔵で保存され、巡行日のみ山台上に飾られる。
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