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伏見区の歴史 : 江戸時代~幕末 港湾商業都市の繁栄

ページ番号13321

2018年7月12日

江戸時代~幕末 港湾商業都市の繁栄

港町伏見の繁栄

 江戸時代の伏見港は幕府公認の船で,過書船とよばれる船や三十石船,二十石船などが行き交う港町として賑わいました。瀬戸内海の鮮魚が陸揚げされた草津の湊,巨椋池・宇治川を通って淀川や木津川ともつながる六地蔵にも港がありました。慶長16年(1611)御朱印貿易により財を築いた角倉了以が,二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を築き,さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより,京都と大坂が水路で結ばれました。中継地として水上交通の要となると,大小の船が集中するようになり,伏見港はさらに発展しました。京橋付近が伏見港の中心で,参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ,宿場町として多くの旅人で賑わいました。

 

淀川三十石船の写真

淀川三十石船

角倉了以顕彰碑の写真

角倉了以顕彰碑

草津の写真

草津の湊
 

伏見城廃城と淀新城

 五大老筆頭として,徳川家康が伏見城で政務を代行し,関ヶ原の合戦では徳川方の城として西軍に攻められて炎上しました。慶長6年(1601)家康により再建され,慶長12年に家康が駿府へ移ったあとも松平定勝が伏見城代となり,大坂城の豊臣氏と対峙する西の拠点でした。しかし,二度の大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると,城の役割を終え,元和9年(1623)の3代将軍となる家光の将軍宣下を最後に,まもなく廃城となりました。同じ年,伏見城に代えて淀に新城が築かれました。かつての淀城は現在の淀城跡より北の納所にあったといわれ,寛永2年(1625)に完成し,木津川・桂川合流点の東に接する中州に立地していました。寛永14年に城主永井尚政の下で木津川河川の付け替え工事が行われ,木津川は現在のように八幡市男山のすぐ北で桂川と合流するようになりました。

 

寺田屋事件と坂本龍馬

 文久2年(1862)大坂の薩摩藩邸より同藩の倒幕派が三十石船で伏見寺田屋に集まり倒幕を成就させるため,決起の準備を整えていました。このとき,伏見の薩摩藩邸にいた公武合体派の実力者であった薩摩藩の島津久光は,決起をやめるよう説得するため,大山格之助,奈良喜八郎ら8人を送りましたが,話し合いは失敗におわり,ここに大乱闘がはじまりました。倒幕派の有馬新七ら6人は即死,田中謙介と森新五郎は伏見の薩摩藩邸で切腹したのが『寺田屋事件』です。寺田屋は土佐藩士坂本龍馬の定宿で,慶応2年(1866)の正月,龍馬は長州藩の三吉慎蔵と酒を酌み交わしているところを,幕府の捕手に囲まれましたが屋根伝いに逃げて難を逃れ,薩摩藩邸にかくまわれました。同年2月に龍馬は薩長同盟を成立させています。

 

寺田屋の写真

寺田屋
 

鳥羽伏見の戦い

 慶応3年(1867)王政復古の大号令のあと,15代将軍徳川慶喜の官職と領地の返上が決まりました。しかし,幕府や会津藩,桑名藩などは納得せず,朝廷との対立姿勢を強めることになりました。慶応4年慶喜は薩摩を討つため上洛を決意,幕府の先導隊が京橋に上陸し伏見奉行所に入ります。この頃,幕府軍本隊が淀川をさかのぼり,その先鋒隊は伏見街道や鳥羽街道を北上しました。開戦の場所は城南宮の西『秋の山(かつての鳥羽離宮築山)』のあたりで,幕府軍と薩摩・長州・土佐・安芸の新政府軍とが押し問答の末に激突,小枝橋やさらに南の中島,富ノ森,淀の町を巻込んで激戦が展開しました。一方,伏見奉行所に入った幕府軍と御香宮に陣を置いていた薩摩藩や長州藩との間でも戦われ,民家が炎上し町の大半が焼かれました。

 

鳥羽伏見の戦跡石碑の写真

鳥羽伏見の戦跡石碑

 

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