伏見区の歴史 : 古代伏見の成り立ち
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2018年7月12日
古代 伏見の成り立ち
化石が語る太古の伏見
桃山丘陵の各地で発見されているハイガイの化石から,太古の伏見は大阪湾が浸入していたと考えられています。また,深草谷口町では伏見人形に使われる粘土の採取場から約50~60万年前の東洋ゾウの臼歯,小栗栖では前足の骨が見つかっていることから,アジア大陸と日本が陸続きであったことを物語っています。
農耕開発と古墳
深草地域は京都盆地のなかでもいち早く水稲耕作の始まったところでした。稲荷山の西南に位置する深草弥生遺跡からは,大量の出土物に混じって鍬や鋤など多様な木製農具が出土し,アラガシやイチイガシのような堅い材木が使われており,精巧な木器をつくるため,すでに鉄器が使われていたのではないかと考えられています。深草弥生遺跡から西へ約2キロにある鳥羽離宮の発掘現場からは, 弥生時代から飛鳥・奈良時代の大集落跡も発見されています。5世紀にはいると稲荷山西麓には, 仁明陵北方古墳,番神山古墳などの前方後円墳,大岩山南麓には黄金塚1号墳,2号墳が築かれていることから,伏見一帯を支配した首長が存在していたことがわかります。弥生中期に先住したのは紀氏・土師氏・久我氏などの古代豪族でしたが,古墳を築いたのは4~6世紀にかけて渡来した秦一族ではないかといわれています。
黄金塚2号墳調査風景
黄金塚2号墳出土盾形埴輪
財団法人京都市埋蔵文化財研究所提供
花園大学考古学研究室所蔵
秦氏と稲荷大社
『日本書紀』には秦氏の首長,秦大津父が,欽明天皇即位後,大蔵の官に任命されたことが記されています。秦一族は機織,養蚕,金工,土木などの各種生産技術にすぐれた大集団を形成し,深草を本拠地としました。京都の古代史にもっとも深い関係を持つ氏族で,秦大津父のあとに首長として活躍したのが秦河勝でした。嵯峨野一帯を中心に京都盆地一帯へと秦氏の勢力を浸透させ,長岡京や平安京の造営にも財政面や技術面で大きな役割を果たしました。秦氏は稲荷大社のほかに松尾社,加茂社など盆地の各所に農耕神をまつる多くの神社を残しています。
伏見の贄土師部
伏見の地は秦一族の拠点であり,また,大和朝廷も山背における有力な拠点としてここに屯倉を置き,土地や人びとを支配していました。伏見の字がはじめて文献上に登場する『日本書紀』雄略天皇17年の条には,朝廷で使用する土師器をつくる陶工を『山背国俯見』から差し向けたことが記され,大和朝廷との深いかかわりや土器をつくる陶工が伏見に居を構えていたことを示しています。最近まで深草,桃山丘陵一帯には粘土の採取場があり,この土を利用して,後の深草瓦や伏見人形づくりに受け継がれました。
深草瓦
伏見人形
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