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京都市北区

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リレー学区紹介-鷹峯学区

ページ番号56218

2009年2月1日

鷹峯:伝統とふれあいを大切に

鷹峯街道の写真

(市民しんぶん北区版「いきいき北区」 平成10年7月15日号より転載)
社会福祉協議会会長の最上勲さんと市政協力委員連絡協議会会長の田口数夫さんにお話をお聞きしました。

街道,光悦のまち
 「市電を降りて,鷹が峯ヘでる真っ直ぐでゆるやかな坂道を歩きだしますと,暑くなるくらいでした。坂に沿って,両側の民家が段々のように少しずつ高くなって,一本道に重なり合っているのも珍しい眺めでした」。大仏次郎の「宗方姉妹」は,学区の中心,鷹峯街道をこのように紹介しています。
 また,鷹峯から杉坂,丹波へ至る街道は,山国道,長坂越ともいわれ丹波と京都を結ぶ重要な街道となっていました。江戸期には,若狭や丹波地方からの乾物,材木,薪炭などの物資の集散地として荷駄が往来し,問屋が軒を連ねていました。 元和元年(1618)には,本阿弥光悦が徳川家康から領地を与えられ,光悦町が生まれました。光悦を慕う芸術家や豪商も移り住み,京都の芸術・文化のメッカとなりました。
 明治2年に旧光悦町と千束・一ノ坂・石拾い・堂の庭が合併して西紫竹大門村となり,明治17年には,上ノ町,木ノ畑村,蓮台野村を編入し鷹ケ峯村となり,昭和6年には京都市に編入されました。

鷹峯三山,御土居
 「紙屋川に長いみどりの黒髪をたらしたような睡美人のようである」とも表現される鷹峯三山(鷹峯,鷲峯,天峯)が四季それぞれに風情を織りなしています。
 また,豊臣秀吉が外敵の侵入に備えて構築した御土居が学区内に2か所現存し,一つは「御土居公園」として整備されています。また御土居跡は「旧土居町」として地名にも残されています。
 鷹峯街道の北部にある鷹峯小学校の標高が約 160mあり,これは,八瀬の比叡山ケープル乗場と同じで,昭和40年代の宅地開発のピーク時には,「京の軽井沢」「百万ドルの夜景」とも宣伝されていました。
 現在,鷹峯学区には,約2千世帯,5千人の方がお住まいになっておられます。以前盛んであった紋彫りなどの西陣織関係や農業,林業に従事される方が減少の一途をたどり,サラリーマン世帯の多い学区となっています。

ふれあいを大切に
 鷹峯学区では,社会福祉協議会が中心となって,「ふれあいと人権尊重のまちづくり」を進めています。なかでも,昨年度から老人クラブ等と連携して,年4回実施されている「ふれあい事業」は,独居老人の方に元気に暮ちしていただくために,歩こう会や地元特産の辛味ダイコンを使ったお餅つき,児童公園の清掃,小学校の草引き,小学生とお年寄りで花を植える事業などを実施しています。また,毎年秋には,紙屋川や京見峠の清掃も実施しています。
 こうした取組に,古くからお住まいの方も新しく住民となられた方も,お互いにふれあいを大切にして,伝統を重んじながら自治活動に取り組んでおられす。
(写真:鷹峯街道)