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京都市北区

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リレー学区紹介-衣笠学区

ページ番号56204

2009年2月1日

衣笠:歴史と芸術文化にあふれて

衣笠小学校の写真

(市民しんぶん北区版「いきいき北区」 平成10年8月15日号より転載)
市政協力委員連絡協議会会長の渡邊保夫さんにお話をお聞きしました。

万葉の昔から
 衣笠の地名は,宇多法皇が夏の炎天下に山に白絹を掛けて深雪の風情を楽しんだという伝説に由来します。また,万葉集にも「久方の 空行く月を 網にさし 吾が大君を きぬがさにせり」と詠まれるほど古くから歴史に名を残しています。
 明治22年の市制・町村制施行に伴い,大北山村,小北山村,松原村,北野村,持院村,大将軍村が合併して衣笠村となった後,大正7年には京都市と合併しました。当時の衣笠は,一条通以北で,北は鷹峯,東は紙屋川,西は御室に接するほどの広範囲な地域でありました。
 明治6年には,小北山学校(のち平野小学校と改名)が平野神社境内に創設されました。その後,昭和6年に第二衣笠校(現大将軍小学校)が,また,40年に宮敷分校(現金閣小学校)がそれぞれ分離しました。最終的に,衣笠小学校は,41年に現在地へ移転し,昨年には最新設備を備えた3代目校舎が竣工し,「地域開放図書館」や「クラブハウス」を併設した生涯学習の拠点として,広く周辺学区の皆さんにも利用されています。 衣笠学区には,堂本印象,木島桜谷,菊池契月,小野竹喬,金島桂華,山口華楊,徳岡神泉といった日本画の大家と門弟が集まりました。また,学区内に,幼稚園から大学(立命館大学)までがあり,教育機関の整った学区となっています。

知られざる歴史
 鳥羽伏見の戦いに利用された薩摩藩の小松原弾薬庫や,平野神社の東側には,御土居の一部も史跡として残っています。市電工事の際には,北野廃寺跡も発掘されました。立命館大学のグラウンドとして開設された「衣笠球場」は,昭和25年頃のプロ野球ブームにより,大陽京都ロビンス球団のホームグラウンドとして,衣笠山の土手を座席代わり多くのファンが観戦しました。また,日本映画発祥の地としての等持院など芸術文化のまちとして全国に知られています。
 ほとんど知られていない史実として,昭和20年6月30日,舞鶴港攻撃を終えた米軍機が京都市内に飛来し,左大文字山から鳥居町にかけて,機銃掃射による空襲を受けています。幸い人的被害はなかったものの,民家の屋根瓦が割れる被害が発生しました。

先駆的な自治活動
 衣笠学区では,社会福祉協議会のもと,各種団体が自主的な活動を他学区に先駆けて実施されています。
 特に,毎年10月10日に行われる区民体育祭(26年からは体育振興会事業として実施)は,昭和21年から始まっています。また,幅広い世代に参加してもらうため,少年ソフトボール大会も早い時期に始められています。これらは,恐らく全市でも一番早く始められたとのことです。
 渡邊会長は,「今後の主要な事業として,他学区に先駆け,地球温暖化防止のための身近な取組として,学区をあげての清掃活動を,年4回実施することを検討しています。各団体も活発に事業に取り組んでおり,日程調整がむずかしい」と嬉しい悲鳴をあげておられます。
 今後も,先駆的な自主活動が大いに期待される学区であります。
(写真:衣笠小学校)