南消防60年の歩み 南防火協会会長 向井博一様インタビュー
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2015年12月28日
南防火協会会長 向井博一様インタビュー
南消防発足60年に当たり,発足当時から,防火防災活動に御尽力いただき,現在も南防火協会長を務めておられる,向井 博一様に,当時の様子をお聞きするため,インタビューを実施しました。
向井会長(写真右)
木村署長(写真左)
(署長)
本日は,南消防発足60年に当たり,南消防署,南消防団の歩みを長きにわたり見てこられた向井会長に,消防署がこの地に建てられた経緯などを含め,お話を伺えればと考えております。
どうぞよろしくお願いいたします。
早速ですが,向井会長は消防署建設地を選定する委員として御尽力いただいたとお聞きしております。そのときのお話からお伺いできますでしょうか。
(向井会長)
60年前ですから,昭和30年だったと思います。
あの当時,下京区が分区して南区ができまして,それに伴いまして,南消防署ができたわけです。
南消防署が先にできているわけではないですから,吉祥院に消防出張所があって,そこが仮の南消防署になっていました。手狭なところでしたので,消防の皆さんも,できるだけ早く消防署を建設したいというお気持ちだったと思います。
そこで,消防署の建設予定地を選定する委員会を立ち上げて,建設予定地を探すことになりました。私を含めて南区の企業から5社ほどの方が集まっていたと思います。
私も一番の若造でございましたが,長らくここに私の会社の本社もありましたし,この地域で子供の頃から住んでいたこともあり,この地域を分かっている一人だと,「向井さんも選定の知恵を貸さないか」ということで,若造なりにお供いたしました。
当局の御希望もありましたし,やはり1,000坪ほどは必要だろうと,色々と探しました。あの当時,一番の御希望は,国道十条を上がったところに機械会社の大きな敷地がありまして,そこが一番の御要望でした。当時その場所には,機械会社の東寺工場がありまして,一帯が工場でした。その工場の一角が空地のようになっていまして,何とかならんかなと,一番初めに話を掛けに行きました。しかし,現状お仕事をなさっており,必要だということで,売っていただけるようなお話しは進まなかったんです。
国道筋か十条通というのが基本的に御希望のラインでしたので,その辺りを探しました。今の竹田街道十条の一角も空地がありまして,そこにもお話しに行きました。また,今の近鉄十条駅の近くに,やはり工場がありまして,そこにもかなり広い空地がありまして,一角どうかということでお話しに行ったんですが,どちらも現業されていまして,空いているからといって,売っていただけるような話にはなりませんでした。
それからいろいろと探したんですが,今建っている所が,ある企業の敷地で,建物は何も建っておらず,何かの物を置いてらっしゃる所でした。そこに話に行きますと,「場合によってはいいよ」という話で,それで,委員の皆さんの御意見を聞き,また,その企業さんも選定する委員には入っておられたので,色々詰めていきました。
本当は国道筋を御希望でしたが,1,000坪というとかなりまとまった所が必要で,また,入口の間口が狭くて奥が長いと消防署としてはお使いになれません。ですから,なかなか御希望にあった適当な土地が見つからなかったんです。
そして,ここは,約2,000坪ありまして,今老人ホームがあるところも全てでしたので,広かったんです。
色々と当たりましたが,結局,まとまっているこの現在の地を,どうですかということで「いいじゃないか」とここにお決めになった訳です。
(署長)
決定にはそんな経緯があったのですね。色々と骨を折っていただきありがとうございました。
その当時の南区の様子や時代背景はどのようなものだったでしょうか。
(向井会長)
60年前ですね。まだあの当時は,これだけ十条が開けていませんでして,この十条から南が,伏見区でしたか。
(署長)
当時は,消防の管轄が深草消防署だったようで,その後下京消防署の管轄になり,分区により南消防署になっています。
(向井会長)
私も仕事の関係で危険物施設の許可書をもらっていますが,それで,伏見の署でもらっていたんですね。
当時昭和30年という時代は,戦後10年,日本も復興の時代に入りました。御承知のように昭和25年朝鮮戦争による特需があって景気が良かったんです。ところが,昭和27年が終わってからまた悪くなって,それから2,3年程たって,昭和30年頃から,今度は岩戸景気やいざなぎ景気など昭和47,8年ぐらいまでは高度経済成長で右肩上がりの経済界となり,日本も非常に発展してまいりました。
だから言ってみれば,経済界も調子のいい時に分区されて,南消防署も調子の良い波に乗りながら,今日を迎えられたと思います。
そして,南区になった地区が,京都で比較的工場が多い地帯ですので,大きな企業が南区にありました。そして今でもそうですが,消防行政にはその当時から企業の皆様が大変御理解がありまして,募金もしたんですよ。建てる予算は市がお持ちでしたが,予算外のところで色々必要だろうと,募金をしましてかなり集まったんです。それでどうしようかと考えまして,署長のお部屋に冷暖房を入れたらどうかと。しかし,当時局長のお部屋も冷暖房がなくて扇風機なのに,署長のお部屋に冷暖房とは,ちょっと思わしくないとお思いになったのか,違うものになりまして,それで,大きな水源も必要だろうと,貯水槽を作ったんです。そしてただ水を溜めているだけではなく,訓練にも使用してもらうようにプールの形に作ったんですよ。
(署長)
その貯水槽は今はありませんが,その貯水槽で水難訓練や放水訓練をしていたことはよく聞いております。
(向井会長)
貯水槽といっても25mの立派なプールでしたよ。水は井戸水を汲み上げていましたね。ここは京都の河川の伏流水で,飲んでもおいしい,良い水が出ました。ところが,水が冷たくてね,夏でも冷たい井戸水で,私もつからせてらったことがありますが,大変冷たかったのを覚えています。
また,北側に署長官舎がありました,今は,老人ホームがありますね,あそこに横に長い署長官舎がありました。
その当時のことはよく覚えていますね,昨日のことは忘れるのに。
(一同笑い。)
そんな状態で,庁舎はできてきた訳です。
その時に署の方が,桜の木をお植えになりまして,この周囲,隣の私の会社の塀の際もずーと桜でいっぱいになりました。幹が3,4㎝の桜を職員さんが自分たちで植えられたんですよ。それが最後は10㎝以上の木になりました。
ここ菅田町に,今はマンションが建ちだして,住む方が多くなってきていますが,当時は50世帯ぐらいが住んでたんです。私も会社の裏に住んでいましたが,その桜が「菅田町の桜の名所」になっていたんです。
それで庁舎の建て替えの時に,植え替えたらしいですが,大きな桜を植え替えたらもちませんよね。それで結局,今は1本も植わってないですね。
当時は,よく咲いていました。その当時,桜は木が甘いのか虫がよくつくんですね,それで署の方が消毒されたり,手間を掛けてらっしゃいまして,なかなか良い花が咲いていました。
それから,分区当時ですが,下京はやはり街でしたが,この辺りは,九条ネギなどの畑で,今のような市街地ではありませんでした。インターチェンジがあるでしょ。当時ここから(国道十条)よく見えましたね。大きな建物もほとんどなかったですから。
昭和の初めに京都駅から近鉄電車が走りだしまして,当時は奈良電と言っていましたか。それまで,母親も買い物といえば八条まで歩いて毎日買い物に行ったと言っておりました。それで,やっと電車ができて,日常の買い物を電車で行ったと母親が言っていました。私は昭和4年生まれですから,その時には電車はできていました。とにかく私の記憶ではまだ田舎で,よくカエルを取りに行ったり,トンボを捕まえたりして遊んだところでした。
旧千本通り,鳥羽街道が国道に移ってきたんです。この辺で町といえば,上鳥羽一帯に集落がありましたね。
やっぱり消防署が出来てから,この十条がですね飛躍的に市街地になってきたと思います。
(署長)
この南消防署が「桜の名所」になっていたとのお話ですが,何か思い出話はございますでしょうか。
(向井会長)
今,京都市市民防災センターがあるでしょう,そこに国鉄の官舎があって,20件ぐらい家があったかな。私も菅田町に住んでいまして,町内会長は順番で,私の次が当時の署長でした。お願いしたんですが,やはり署長ですので,他の方がされたんですね。
そしたら町内から,「あそこの桜の名所で,お弁当を食べよう。」となりまして,当時町内で年に1,2回バスで旅行したり懇親会をしたりしておりまして,その一環でお願いしたんです。「消防署の中になるので。」と,お断りになったのですが,「町内会長受けへんは桜も受けへんて,そんな無慈悲なことしなさんな。」とアホなこと言うてね,署長さんとお隣で仲良かったんですが,それで,とうとう署長さんも負けはってね,敷地の中の桜の下で,むしろ敷いてお弁当を食べたのを覚えています。
今では考えられませんが,昔はそんな時代でした。
それから,貯水槽の話ですが,当時女学生も泳いでいたんですよ。
今,カラーガード隊が消防音楽隊にありますね。当時は,ある女学校の生徒に頼んでいました。その女学校にお世話になるのに,女学校にプールがなく,どこかで借りて泳いでいるから,それなら,井戸水を溜めただけのものですが,南の貯水槽を使っていただこうと言われたそうです。
私も泳いでおられるのを何度か見ました。
(署長)
向井会長は長らく防火協会長としてお務めいただいておりますが,きっかけはどのようなことだったのでしょうか。
(向井会長)
いつ頃でしたか,当時の会長が,「地域のこういった活動は,企業でするというのもいいけれども,地元に住んでおられるような人がするべきだ。」とおっしゃるんです。そして「私は勤め人だから,何年かしたらまた故郷へ帰る浮き草みたいなもので,それよりも,地に着いた方がされるべきではないか。」そして最後に「君が一番適任や。君はここで生まれて育っている。君がやるべきだ。」とおっしゃるんです。それで私は,まだ若かったですし,また,大きな企業がある中で,私なんかができるのかと,だいぶ辞退したんです。しかし,「それはわかる,分かるけどね,将来君も年を取るから,年をとった時に振り返ってみたら,あんたにも為になる。」と上手におっしゃって,口説かれまして,それで今の防火協会長とか自衛消防連絡協議会長,危険物安全協会長など務めてまいりました。
(署長)
今お聞きしておりますと,当時から地域の企業の方とか企業の枠を越えたつながりがあって今日があるのかと思いますが,やはり昔から企業間の連携とか絆とかが強い地域だったのでしょうか。
(向井会長)
その当時,大きな企業による商工会議所のグループとか工業会とかはありましたが,南だけでこう集まってという会はなかったですね。それで,消防関連の活動で,かえってそれが企業間のまとまりの一つになっていたと思います。
(署長)
最後に防火防災について何かお話いただければと思います。
(向井会長)
母親から家を出るときは「火の用心,火の用心,火の用心と3回唱えなさい。」と教えられました。3回唱える間に,思い出して確認できると言うんですね。また,「寝る前は鍋に水を溜めて寝なさい」とも教えられました。火災の時の消火に使えたり,地震などで水が出なくなっても使えたりできると言うのです。
このように防火防災には自分たちでできるところからやっていく事が大事だと思っています。消防署の皆さんのお力を借りながら,私共自身で,自助の精神で防火防災に取り組みたいと思っております。
今後共よろしくお願いします。
(署長)
本日はお忙しい中お話を頂きまして,ありがとうございました。
発足当時の状況や,南消防署建設場所の決定に至る経緯など,貴重なお話をお聞かせいただきました。当時から現在に至るまで,地域の皆様の支えがあって,消防署が存続していることが良くわかりました。
今後もその南区の安全安心のために,南消防署員,南消防団員一同精一杯取り組んでいきたいと存じます。
今後とも御協力をお願い申し上げます。
本日は本当にありがとうございました。
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