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「きたけん」について

ページ番号49469

2023年3月31日

きたけん(部落解放研究北区集会)

「部落解放研究北区集会」から「きたけん」へ
──地域ぐるみのまちづくり集会をめざして

 部落解放研究北区集会(略称:北研,又は北区集会。現在は「きたけん」が正式名称)は,1972年10月15日に産声をあげました。

 1950年代後半からの住環境改善事業によって,千本地域の住環境が激変するとともに,同和教育や京都市の雇用対策が成果を挙げてきた時期でもあります。一方で「なぜあそこだけが」といった反応もある中,「部落差別をなくするために,この問題を広く知ってもらいたい」という集会が企画されたのは,時宜にかなったものといえました。

 第14回までの集会は,「部落問題について正しい認識をもつ」ことをテーマに,佛教大学の講堂を借りて午前中は基調提案,学識経験者や運動家による講演,そして千本の人たちの「わたしの歩んだ道」の報告が行われ,午後は分科会討論を行うというものでした。

 第15回集会からは,「人権尊重の町づくりを市民一人ひとりの手で進めよう」というスローガンが掲げられ,差別を許さない,差別のない世の中を実現するには,わたしたちが毎日暮らしている「まち」のありように目を向けるべきだということを打ち出したのです。このころは,千本における住環境改善事業がひとまず完了し,部落解放運動の新たな展望が探り始められた時期でもあります。この集会では,「わたしの歩んだ道」の集大成として,千本部落の先輩であり,楽只小学校の創立者でもある益井茂平の生涯を劇にした『いばらに死すとも』が,地元の人々の手によって上演されました。

 以後第20回まで,「きたけんのまち」に暮らす人々の様々な力を引きだす試みが続けられ,第21回集会には,次のようなスローガンが掲げられました。

  わたしたちのまち  ゆたかなふれあいのまち  やさしさのまち

 すべての人の人権を守ることを基盤においたまちづくり......単なる建物の集合体としての「まち」ではなく,すべての人が人として認められ,支え合い,夢をもって生きていける仕組をつくろうという主張がこめられています。千本での新たなまちづくり運動の気運が高まってきたのも,このころです。

 集会の形態にも変化がありました。第21回集会の行われた1992年は,二学期から公立学校の第二土曜休業が導入された年でもあります。この日,「北研」に携わる人々の手で船岡山公園を「地域の人々が,親と子が,ともにつくりあげる広場にしよう」ということで取り組まれたのが「船岡山イベント」でした。以来,この催しは9月の第二土曜日に定着して回を重ね,いまでは子どもたちを中心に企画運営がなされています。

 10月に佛教大学を会場に行われてきた集会は,第21回から第30回までは「部落解放研究北区集会・佛大集会」と呼ばれ,こうした取組の報告と,全国各地,あるいはアメリカやイギリスのまちづくりの事例の学習,地域や学校での実践が報告されてきました。そして,2002年の第31回では「きたけん まちづくり集会」と名づけられ,「北研のすすめるまちづくり」の内容を深めてきました。
 2003年の第32回集会からは,「きたけん」が実行委員会及び集会の正式名称として採用されることになりました。

 「部落問題についての正しい認識をひろめる」ことをめざして始まった部落解放研究北区集会は,回を重ねる中で,差別をなくすための「具体的な行動」を呼び掛け,その行動を「人権のまちづくり」へと結びつけることを訴えてきました。それを受け継ぐ「きたけん」は,人が人として出会うことを妨げる差別をなくし,このまちに住む一人ひとりが「ゆたかな出会いと暮らし」のできる場をつくろうと,いま新しい歩みをはじめているのです。

 

 

 

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