【レポート】 令和7年度総合教育会議(令和7年11月10日)
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2025年12月26日
【テーマ】「教育×京都基本構想 ~「夢中」と「感動」に溢れる京都ならではの教育環境を目指して~」
令和7年11月10日、「教育×京都基本構想~「夢中」と「感動」に溢れる京都ならではの教育環境を目指して~」をテーマに令和7年度京都市総合教育会議を開催しました。

開会挨拶
松井 市長
京都基本構想案の序文では、京都の歴史的な位置づけ、山や川に囲まれた自然との共生、そして京都に生きる人々の共同体の三点について触れている。この三つの軸を展開し、その軸を序文として、京都の価値の源泉のようなものを示したうえで、本物(ほんまもん)をどう追求するか、夢中と感動にあふれたまちをどうつくるかを論じている。
また、京都には、他都市にない強度・密度で素晴らしい人材が存在する。未来を担う子どもたちの育成のため、京都に関わるこうした人材に、どのように一肌脱いでもらうかが重要である。このことは、価値を並列的に展開した京都基本構想案において、「京都学藝衆構想」という形で具体的に提起しており、私は特に、未来を担う子どもたちの人間力の養成に、京都に住む人々だけでなく、京都に魅せられ、頻繁に訪れる人々の力や磁力を活かしたいと考えている。
これは、学校という場だけでなく、市役所や区役所、場合によっては鴨川や寺院などの場を借り、そろそろ一線引くような方々にももう一肌脱いでいただき、自分たちの経験、あるいは職人芸や文化等をしっかり伝えていただく。また、子どもたちだけでなく、その方々と子どもたちの間にいるすべての世代が、もう一度学び直し、様々な気づきを得られるような機会を創出する。京都をそのようなまちにしていくことは、京都の文藝だけでなく、京都のまちの底力を支え、場合によっては産業の活力にもつながると考えている。
意見交換
濱崎 教育委員
基本構想を議論し、形にしていく中で、私自身が京都のまちを考えた時に、まさに先ほど市長がおっしゃったように、磁力というものがあると思う。磁力の源は何かと改めて振り返ったときに、この「自然、歴史、人々」は、まさにそのとおりだと思う。歴史軸を感じ取ることができる人がいると同時に、自然があり、建物や町並み、着物といった物や環境が京都にはある。京都は、歴史と空間の外から見た自分、つまり歴史の中の一点としての自分の位置を、根っこの部分とともに感じ取るきっかけが多くあるまちである、これは、本当にありがたいことであり、それを今一度認識することで、京都の素晴らしさを新たに蘇らせることができるのではないか。
学生も、京都の良さは感覚的にわかっているかもしれないが、その感覚をもう一度示すことが必要だと考える。
次に学藝衆という言葉について、ジャンルや部署ごとに分断されるのではなく、社会・経済・文化・歴史・教育のすべてが循環しなければならないという議論の中で、文化を含め、すべてをつなぐキーワードとして浮かび上がってきた。歴史的な大きな観点で見た時、今の教育システムも人が作ったものであり、100年、200年の間に変化してきている。また、社会はさらに動いている。だからこそ、京都の千年の歴史で培ってきたものは何か、学びとは何か、藝とは何かを問い直す必要がある。
なぜ藝なのか、なぜ学なのかを問いながら、社会における役割、特に教育においては、子どもたちにキャリアを示せるレベルまで育む必要があると考える。私自身が考える中で、学びは多様であり、人生そのものが学びである。藝とは何かを考えると、技術も芸能もそうだが、ずっと学び続けたことが藝になる。学びが生き方に結びつくが、それが藝である。藝と学の循環が社会をつくり、それが教育現場に反映されることが必要だ。
私は伝統文化の研究者として、伝統文化で教育カリキュラムを構築できるのではないかと考えてきた。京都学藝衆モデル校のようなものを作れないかと思う。伝統文化の観点から教科を再解釈することで、子ども自身のキャリアにもつながることを示す教育ができるのではないかと考えている。それぞれの分野からでてくるアイデアを具体化し、それを総合し、社会や文化、ビジネス等に還元する循環ができればと考えている。
松山 教育委員
海外の方に京都の魅力を尋ねると「京都には思想があるから」とおっしゃられる。京都にあるこの思想とは何かというのは重要なテーマである。
戦後は効率性の追求ばかりをしてきており、特に、時間的効率性、金銭的効率性をずっと追求してきたが、学藝や文化はその対極にあると私は思う。非常にお金がかかり、時間もかかる。しかしそれが人間を豊かにし、まちを豊かにし、人間たる喜びを生むのではないかと思う。そこで重要になるのが本日のテーマにある夢中と感動である。一見、非効率的・不合理であるが、夢中にさせ、感動を与えるものに真剣に取り組めることが京都の最も重要な価値であり、そこから思想が生まれるのではないかと思う。
京都の価値観について、昔は家庭の中で自然に祖父母や親からシェアされていたが、そうした口伝のようなものがなくなってきている。少し前に東京で業界団体の懇親会があった際に上座と下座の話となった。東京では、席順はビジネスの大きさで決まるが、京都では、まちへの貢献を基準に長老が決めるといった違いがある。このように京都では、商売の大きさではなく、祇園祭での活動や商工会議所での貢献など、自分の利益だけでなく京都への貢献が評価される。教育の中で地域貢献の価値を伝えることやモデルを示すことが重要であると考える。
京都府の男女の平均寿命は全国トップクラスだが、女性の健康寿命は全国ワーストである。由々しき事態であり、これは女子児童の体力の低さからきているのではないかと考えている。小学校5年生の男子は全国平均程度だが、女子は全国でも低く、女子だけが低いこの原因を究明し、改善しなければならないと思っている。知力だけでなく体力が重要であり、長く幸せに暮らすために必要なことである。
今、日本の各地で外国の方とのトラブルが生じているが、これはお金や人種の問題などではなく、規律を守れるかどうかに起因していると思う。今後、海外から京都に住む人が増える中で、語学教育も大事だが、より重要なのは規律を学校で教えることである。自分で学校に行き、教室を自分たちできれいにするなど、基本的な規律を理解してもらう必要がある。日本は規律がベースの国であり、これを怠ると問題が起きる。今のうちから教育機会を提供することは京都市にとって重要だ。
笹岡 教育委員
我々が日本文化を海外に発信する際に一番大事にしているのは、日本人の自然観である。もちろん日本文化を知ってもらう、日本は良い文化を持っていると発信することも大事だが、人間と自然は本来不可分であるという日本人の自然観が忘れられがちになっている。そうした価値観を海外に発信することが我々の務めだと考えている。
京都の人にはいろいろな考え方があり、それぞれの京都観がある。京都は東・北・西は山に囲まれ、これ以上広がりのない空間にいろんな文化がひしめき合っている。友達付き合いや近所付き合いの延長線上で、新しい文化が生まれる素地がある。そうしたことが基本構想案の共同体の部分に書かれている。
先ほど、感謝の話もあったが、私は幼い頃から稽古場に出入りしており、あるおばあちゃん先生が、花を処分する時に、必ず半紙で包んで、日本酒をかけて清め、時には涙を流しながら、手を合わせて「美しい姿を見せてくれてありがとう」と言っているところを見てきた。生け花教室では花を美しく見せる技術も大事だが、それ以上に自然への感謝が肝心だと教えてくれていたと思う。そうしたことをしっかり発信することが重要である。
野口 教育委員
一ヶ月ほど前、教育委員会議で学藝衆の説明を受けたときは、学藝衆という言葉に違和感があり、その理由は2つあった。1つは、上から目線だと感じたことである。秀でた知識や技術を持つ人たちから教わるという点が強調されていると感じた。しかし、先ほどの市長のお話で、秀でた芸術や科学の能力を持つ人だけでなく、京都が好きで度々訪れる人、住むことになった人など、そういう人たちも含めて一緒に育っていくものだとお聞きし、この構想の意味が腑に落ちた。
もう一つは学藝という言葉から、文化・社会・教育・伝統・芸術のイメージがあるが、科学という言葉をもう少し強調したいと思っている。今年もノーベル賞が京都から出たが、誇るべき、科学の最先端を行くのが京都である。基本構想案の記載にもそうした内容はあるが、もう一歩踏み込んでいただければ嬉しい。
それから夢中と感動について、私は夢中で研究してきた研究者であり、まさにその俎上に載っている者だと思う。感動はノーベル賞級の結果でなくても、良いデータが出た時に「やった」と思える瞬間がある。また、北川進先生もよくおっしゃるように、学生と議論するのは非常に楽しく、学生から学んでいるという点を強調されることがある。このように感動は教育の中でも得られるものであると思っており、そういうことも強調していきたい。
最後に、科学と社会をつなぐことについて、これを行うジャンルはサイエンスコミュニケーションと呼ぶ。私は、今、文系と理系の学生を集めて、サイエンスコミュニケーター(科学と社会の架け橋となる人)を育てることに力をいれている。科学と社会を結びつけ、社会全体が科学を理解して押し進めていくことを目指したい。
石井 教育委員
京都基本構想案に「都市は理想を必要とする」とあるが、私も社会は理想を必要とすると思っている。今、本当に哲学や思想が欠けた社会になっている。思想や哲学が社会全体に実装されると、社会が生きやすくなると考える。ここに書かれている内容には非常に共感する一方で、文化や思想、学藝という観点から見ると、危うさも感じる。それは、先ほどもあった上から目線ということに関係するが、文化は上下や高低ではない。学藝や学藝衆をどう定義するのかということが重要である。
それで言うと、先ほど市長がおっしゃった京都の底力ということは非常に重要だと思う。上下や高低ではなく、対極にあるオープンさや、また、真面目の対極にある不真面目さ、つまり逸脱が必要であり、京都はそこが強みだと思う。松山委員が以前の教育委員会議において、「京都は奇人を貴ぶ文化がある」という言葉をおっしゃったが、今の日本が生きづらいのは、奇人を貴ぶ文化がないからだ。
加えて、京都は品の良さとやんちゃさが同居しており、スタンフォードやシリコンバレーなど新しいものが生まれる場所にも共通しているが、そこから導かれるキーワードは「おもろい」である。おもろさがなくなると文化は沈み、活力を失う。だからおもろい人を増やし、学藝衆の裾野を広げることが大事だと思う。
具体的には、各地域に学藝衆がいるのかを考える必要がある。学藝衆がいない地域が排除されることがないよう、政治や行政がベースを引き上げ、全体に活力をもたらす必要がある。これが先ほどの京都の底力を上げるということだと思う。
もう一つは、町医者的、専門家的に学校に関わる中で本物(ほんまもん)が重要だと考えている。
私は、体験学習は「with本物」であるべきであり、これが探究的な学びの本質であると考える。本物から教えを受けるだけでなく、本物とともに問題に向き合うことが重要だ。また、教えている人も若い人から学んでいくことでカウンターパートナーのような関係となる。探究学習や社会との関わりの中で、本物とともに学ぶことで、子どもたちはその背中や横顔、手元から学んでいく。これは徒弟制の核心みたいなものである。その中で教育という営みは、初心を見つけさせてくれるところがある。つまり、文化が上で教育が下ではなく、教育を通じて文化が問い直され、元々はこうだったということに気づく瞬間がでてくる。伝統文化においてもこういうことをとても大事にされており、学校教育だけでなく社会教育も含めておもろい大人を増やすことが重要だ。市職員や教員こそ、京都の施設を自由に使い、学藝衆として、あるいはそれを支えるサポーターとして関わる流れができるとよい。その中で子どもたちも巻き込まれていく、そういう流れができることを望んでいる。
松井 市長
野口委員が指摘された上から目線という点は、我々が最も留意すべきことである。中には、上から目線でいいという意見もある。京都は、ノーベル賞研究者や人間国宝、文化功労章・勲章を受章した方々が多数いるまちであり、そこから学べることは京都ならではで、京都しかできないことである。
しかし、先ほどの石井委員のお話とも関連するが、私の学藝衆のもう一つのイメージは、時々行く喫茶店の円卓である。そこには大学の先生も職人もいて、普通にお茶を飲みながら世間話をしている。市井の人がまちの歴史を語り、どこにも書かれていないことを自分の知識として知っている。こうした話をフラットな関係でお互い学び合う。大学の偉い先生やご住職でも、フラットな関係であれば話が続く。これが偉大な田舎と言われる京都の良さである。
残念ながら、学生たちはそういうコミュニティに触れずに卒業してしまう。教科に取り入れられれば良いが、難しいなら放課後や週末に、京都のまちの人々が横顔や後ろ姿を見せられる場を設けたい。一生懸命詰め込む教育よりも、石井委員がおっしゃったように京都のまちの人々が横顔や後ろ姿を見せる場を学校の放課後や週末、あるいはお寺や区役所などを使って場を設けられないか。だから私のイメージは上から目線ではなく、普段着で歩く人々の話を聞くことだ。子どもたちに窓を開けば、大人も出入りし、学び直したいと思う人も出てくる。これが私の学藝衆のイメージである。
さらにAI時代においては、知識だけでなく身体体験をどう増やすかが重要だ。AIが補えないのは身体性であり、これを教育の中でも重視しないといけない。
石井 教育委員
今の話を伺って確信したが、それは教育課程の問題ではない。そこに入れたらおそらくうまくいかないと思う。なぜなら学校教育は基本的にシミュレーションであり、本物にはなりえないからだ。
かつて、教材研究とは先生方が研究することとほぼイコールだった。社会科の先生方は教科研究会で地域を回り、地域研究を行っていた。先生方同士が実践を共有するだけでなく、各地域に行ったり山に登ったり、京都ならではのフィールドワークをしたりして、それを教材研究として生徒に還元していた。
つまり本質は、先生方が学校外のサークル活動や研究会組織に参加し、学びながら授業をしていたことだ。しかし今、その条件は急速に後退しており、学校外で学ぶ場がほぼなくなり、そうした活動は萎んでいる。
先生方が学校内で、OJTで学ぶだけでなく、教科研究会などで集まり、教材研究や専門的な教科研究を行う。そうした取組をもっと広げることが必要だ。それが広がれば、状況は大きく変わると思う。
松井 市長
専門家はわりと寡黙で、伝えることが不器用な場合がある。学藝衆を考える中で一番大きな課題は、専門家が必ずしも伝えることが得意ではないという点だ。むしろ、今教材研究をしている先生方のように、教科として伝えるかどうかは別として、その世界に深く踏み込んでいる人が担い手になるべきだと思う。では、教科ではないとしたら、どんな形でどう引き込むのか。あるいはその専門家が伝えることの専門家でない場合、どのような人と組み合わせて子どもたちを巻き込んでいくのか。さらには生涯教育のように子どもたちが世界に関心を持って巻き込まれるようにするのか。それが私の一番の悩みである。
石井 教育委員
里山の発想はそれに近い。かつては学問・文化と人々の間に多くのサイエンスコミュニケーターがいた。
かつて田舎のみならず都市部でも教員は地域の文化的リーダーだったが、それが一気に崩れてしまい、今や教育というものが教え方や学び方に偏ってしまっている。先生方は日々目の前の子どもたちを相手にしており、また、マニュアル通りに教える形になっている。
先生自身が学び直し、学藝をすることで、自然と子どもたちにも投げかけることが出てくる。だから授業は学びへの導入であり、探究的な学びも、本来ならば学校から飛び出す子どもをつくることがポイントであった。きっかけづくりは学校で行うが、その先の学校外の学びの場が、現状は習い事や塾ばかりで貧弱である。そうならないようにすることがポイントで、子どもたちの社会教育を大人たちの生涯学習と結びつけ、どう循環させるかが重要だと思う。
松井 市長
里山的な役割を担う人が、テーマごとのコーディネーターとして存在することが重要だ。そしてその方が自分も学びながら、学んだことを子どもたちに伝えていく。このように学藝衆構想は、子どもだけでなく、大人も含めてである。また、京都は比較的狭いので、各地域や学校で必ずしも講座を持つ必要はない。ただ、学校で「こういう講座がある」「これが京都の魅力だ」と先生方に知ってもらうことが大切だ。
プロだけが話すと子どもたちは退屈する可能性があるため、里山的なコーディネーターが間に入り、子どもや一般の方にどう伝えるかを工夫する。映画好きな子どもには「右京区に行ってごらん」と案内できるようにする。毎年映画講座を続ければ、モデレーターやコーディネーターもさらに知識を深めることができ、将来映画界を目指す方も出てくる。
こうした講座を分野ごとに展開し、そこに、地域ごとに特色を生かしたテーマを設定する。講座を通じて、里山的な存在が子どもや一般の方に学びをつなぎ、導く仕組みを作ることが重要だ。
石井 教育委員
講座を開くとなると、誰かが提供しなければならない。大学生のサークル活動のような、大人のサークル活動的な仕組みで展開できれば循環型になると考える。社会教育や生涯学習みたいな形で連携させることが重要だと思う。
これからの公教育の最大の問題はいるべきところに人がいない「歯抜け状態」となること。担任制が維持できず、チーム担任制にせざるを得ない状況もある。京都市は定員が充足しないところに人を配置できるよう条件整備がしっかりしているが、その基盤の上に教育委員会は、まず学校教育に余裕を生み出す必要がある。その上で先生方が余白を持ち、自分たちで学べる場を確保することが大切だ。
その上で、先生方がやりたいこと、好きなことを学べる場があり、自分のやりたいことや好きなことを学ぶ経験が大人にも生まれれば、それに子どもたちも巻き込まれる。サークル活動やサークル的な場、かつて喫茶店が果たしていたパブ的役割が重要だが、今はそうした場所が減っており、いろいろな職種や文化圏の人々がフラットに集うパブリックな場が弱くなっている。
松井 市長
おっしゃるとおり、そこには上下関係がなく、愛好家が集まり、堅苦しくない学びがある。それが文化の厚みであり、京都にはそれが圧倒的にあるが、実は京都の人はその豊かさを自認していない。いろんな人が集まり、横並びで談論できる場があり、しかもそれがみんな好きでやっている。
そういう場がどんどん減っている。ボランタリーな活動を持続可能な形でまちに定着させることが重要だ。滅びゆく存在をどうテコ入れするか、代替物をどう作るか、パブ的な場をどう再構築するかがテーマである。このテーマを行政にどう組み込むかは難しい。単に制度化すると好きというボランタリーな部分が失われる可能性がある。好きな分野を研究し、それを子どもに伝えるのが好きという先生もいる。教育課程から離れた活動にする方が、この構想の本質に合うかもしれない。
笹岡 教育委員
京都市は非常に手厚く教職員の人的支援をしているが、日本語指導教室わかばや青少年科学センターなどを訪問すると、もっと人的支援が欲しいという声を聞く。もちろん予算の制約があるため難しい面もあるが、教育活動は人がいなければ成立せず、先生方をどう集めるかが肝だと思う。
教員免許を持つ人、持たない人を含め、いろんな人が子どもたちに関われる仕組みを考える必要がある。できることとできないことはあるが、議論の土台にはのせるべきだと思う。
さらに、海外にルーツを持つ子どものサポートとともに、親への支援も大切だ。現状でも学校は出来ることには取り組んでいるが、先生が対応するには限界がある。これを全庁的に考えていくことが、非常に重要だ。
吉田 副市長
学藝衆は広く捉えればよいと思う。
学藝衆構想を進める中で、教育委員会に期待するのはスポーツや文化、伝統文化の継承だけでなく、そこに深く入り込み、自分の考えをまとめて行動する力を育てることだ。これは探究活動に近い。清掃活動をする人も、自分で考え行動している。こうした力を育てる観点で教育委員会に関わってほしい。
データ集11ページのウェルビーイング調査では、京都市の中学生は「将来に夢や目標を持つ」「地域や社会をよくするために何かしたい」という項目の数字が低い。学藝衆の取組でこうした数字が上がる可能性がある。また、12ページにあるように、支援を必要とする子どもがいるが、こうした活動で子どもの良さを発揮できると思う。
最後に、学藝衆構想の活動場所について、石井委員が言われた里山的な場は、教育委員会で議論している部活動の地域展開もその一つだと思う。地域クラブに加え、放課後クラブも考えており、子どもの興味関心に応じた自由度が高い取組を想定している。
図書館も学びの場だけでなく、地域コミュニティの場として垣根を低くして活動している。こうした場所を使いながら、子どもたちに何を伝えるかを考えていくことが重要だ。
尾崎 総合企画局長
構想自体に余白や隙間をあえて残しているが、本日の会議の議論を通じて、それぞれが京都の未来を考えることが重要だと改めて感じた。これは大人だけでなく、未来を担う子どもたちも含め、それぞれが自分自身のあるべき京都を描くことが大切だと思う。
次に学藝衆構想について、京都は生活文化が大切であるとともに、文化は嗜みであると考える。特別なことに取り組むのではなく、知らず知らずのうちに自然や季節を感じるといったことが身につく。そのために、まずは存在を知り、触れ、馴染み、いずれは自分の好きなものを見つけて、自分自身の中で極めたいことを見つけることが大切である。
平賀 文化芸術政策監
大人と子どもの関わりが、私たちが子どもの頃に比べて減っていると思う。子どもはとても忙しく、また、親や学校、習い事の先生など限られた大人との関わりの中で成長している。忙しさの中で効率を求める生き方が子どもの頃から身についている、そのような状況が多くあるのではないか。
要するに、大人との出会いの場をどう作るかがポイントだと考える。
学藝衆という言葉からは立派な人を思い浮かべるが、説得力のある話ができる人と関わる場を子どもにどう作るかである。そこで見極める力を養うことができる。人生のベテランが集まる場を設けそこに行けば面白い話が聞ける、あるいは学校の宿題でも、AIに聞いても答えが出ない、誰かに聞かないとわからないような仕掛けを作るのも1つの案だと思う。これは教育現場だけでなく、区役所や関係部署など、あらゆる部署の役割だと感じる。
結びに
稲田 教育長
京都基本構想、そして学藝衆という取組は、これまで京都市の教育が先進的と言われる中で、それをさらにアップグレードする非常に大きなチャンスだと思っている。
その中で大事なのは、まず先生の余裕である。今はカリキュラムに基づいた教育を子どもに提供しなければならないという意識が強く、先生の余裕がなくなっている。先生方が個人研究できる環境を整えることが必要だ。
また、学校外や先生以外からの学びは子どもにとって非常に大きい。教育基本法改正以来、伝統文化は教科に取り入れられ、音楽の時間にも歌舞伎や文楽、狂言が出てきており、知識としては学んでいるが、あまり定着していない。高校生の能楽鑑賞教室の際、演目が歌舞伎にもあるものであったため、「これが歌舞伎にある演目だと知っているか」と聞くと「知らない」という反応だった。一方、「最近人気の歌舞伎に関する映画を見たことがあるか」と聞くと8割が手を挙げた。学校外で学ぶ身近なものの定着は非常に大きいと感じた。
市長から紹介があったが、私は全国コミュニティスクール連絡協議会の会長を務めており、先週は仙台、昨年は金沢で取組事例を見たが、地域の方々による子どもの育成と、地域の発展が両立する形で実践されている。京都の地域力は高いが、都市化で衰退してきており、この力を学藝衆やコミュニティスクールで回復できないかと考えている。
この議論を、部活動の地域展開も含めて、京都の教育のさらなる充実につなげたい。
松井 市長
京都のコミュニティスクールは日本国内で非常に高い評価を受けている。京都は地域の力で学校を良くしてきたが、地域の力は高齢化などで低下し、今は学校が基軸となって地域を良くしていく「スクールコミュニティ」をどう作るかが課題である。当初は学区単位のコミュニティを想定し、部活動の地域展開を含めて学校をどう活用するかという視点だったが、今日の話をお聞きし、大人と子どもが一緒に学ぶことは非常に重要であり、そこに里山的機能を果たす大人がいれば素晴らしいと思う。そういう意味では、まち全体がコミュニティスクールからスクールコミュニティへ、つまり学びの共同体をどう作るか。それは学区単位の場合もあるが、むしろまち全体で、大人と子どもが一緒に学ぶ場をいかに多く提供するかが重要だ。大人は自分の好きな分野で専門性を高め、その姿を見た子どもが将来その世界に興味を持つ。
京都にはこうした講座を数多く作れる圧倒的な特徴がある。これを入口として教育課程に位置づける方法もあるかもしれないが、課外の活動にどう位置づけるか。学校は、子どもにこのまちで育つこと、このまちで学ぶことの意味を示し、まち全体で大人と子どもが一緒に学ぶという、学校だけでは担えない、先生だけで担えない部分で、それぞれの専門家をどう巻き込んでいくのか。子どもと大人が一緒に学び、広い意味での「藝」、つまり社会の生き方を含めて学ぶ。そういう学藝衆構想があるということを、今日の議論を通じて感じた。
お問い合わせ先
京都市 教育委員会事務局総務部総務課
電話:075-222-3767
ファックス:075-256-0483







