こども情報館(みてみよう歴史)
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2024年5月1日
平安京の誕生から京都市ができるまで
延暦13年(794年)、唐(とう)(中国の都)、長安をお手本に、京都に平安京が造られました。東西に約4.5キロメートル、南北に約5.2キロメートルの長方形で、政治を行う役所(大内裏)が置かれ、その中心に天皇の住まい(内裏)がありました。そこから南の玄関口となる羅城門まで、まっすぐ朱雀大路(今の千本通)が通されました。
まちは、ごばんの目のように計画的に造られましたが、右京はしめった土地が多く、人が住みにくかったので、人々は左京に移っていきました。そのため、京都の東側の発展が進んでいきました。
平安時代の京都~貴族と武士~
平安時代に大きな力を持ったのは、藤原氏という貴族でした。むすめたちを天皇と結婚させて、天皇と親戚関係になったのです。藤原氏は、天皇を助けて政治を行う「摂政」や「関白」という地位にのぼり、力をのばしていきました。
平安時代の末期には、貴族よりも武士の力が強くなり、平氏が力をのばしていきました。平清盛の時代にいちばん大きな力を持ちましたが、清盛が死んだ後、平氏は源氏に破れ、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。
室町時代の京都~にぎわいと応仁の乱~
鎌倉幕府が足利尊氏にほろぼされた後、室町幕府が開かれ、将軍は京都に幕府をおきました。
この時代に造られた金閣寺はごうかな北山文化を代表し、銀閣寺は質素で味わい深い東山文化を代表する建物です。
また、京都のまちが、上京と下京に分かれました。上京には、内裏(天皇の住まい)や幕府があり、下京には、商工業者(商売をしたり、ものを作ったりする人)が中心にまちを作っていきました。
応仁元年(1467年)、室町幕府の将軍のあとつぎ争いから、応仁の乱が起こりました。これは、京都のまちの大部分を焼け野原にしてしまう大きな戦いで、11年も続きました。
秀吉の「京都・大改造」
室町幕府の力が弱まると、たくさんの武将が領土を広げようと争いました。天下統一まであと一歩のところで、織田信長が明智光秀の裏切りにあって自害した後、豊臣秀吉が、天下を統一しました。
秀吉は、金ぱくでおおわれた「聚楽第」というごうかな建物や伏見城を建てました。
また、東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯、南は九条にいたる長さ約23キロメートルにおよぶ土塁(土を盛り上げたもの)でまちを囲みました。これは「御土居」といい、京都のまちを、外からのこうげきや洪水から守るためのものでした。
平和な江戸時代とゆれた幕末の京都
慶長5年(1600年)の関が原の戦いで勝った徳川家康が、江戸幕府を開きました。江戸時代の京都は、政治的には平和な世の中でした。商人・角倉了以が、大堰川(桂川)や高瀬川を切りひらいたため、船を使って物の行き来が活発になり、経済が発展しました。
しかし幕末(=江戸幕府の末期)には、佐幕派(幕府を守る考えの人たち)と尊王派(天皇中心の政治を目指す人たち)が対立しました。
そして慶応3年(1867年)、幕府が国を治める権利を朝廷へ返すことになりました(これを大政奉還といいます)。
都が東京へ。そして始まった近代化
新政府軍と旧幕府軍が、京都の鳥羽・伏見で激しく戦い、新政府軍が勝ち、明治2年(1869年)、日本の都が、京都から東京に移されました。京都のまちがさびしくなることを心配した人たちは、活気を取りもどすために、次々と近代化を進めました。
琵琶湖の水を京都に引く疏水工事もそのひとつです。21歳の田辺朔郎が、多くの困難を乗りこえ、実現させました。おかげで豊かな水がもたらされ、水力発電が可能になり、日本初の路面電車が実現しました。
このほか、外国の技術を取り入れたり、全国に先がけて小学校を作ったりしました。
京都市が誕生!
明治22年(1889年)に、国が全国に39の「市」を作ることを決め、「京都市」が誕生しました。はじめは、京都府知事が京都市長の仕事をしていましたが、自分たちの手で京都のまちを支えていきたいと思った人々が、国に強く働きかけました。そして、明治31年(1898年)、市民によって新しい京都市長が選ばれ、市役所ができたのです。