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こども情報館(右京区ってこんなまち)

ページ番号96708

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2022年7月8日


右京区ってこんなまち

右京区(うきょうく)のようす
磨き丸太


 右京区(うきょうく)は京都市(きょうとし)の西北部(せいほくぶ)にあります。区(く)の北部(ほくぶ)はほとんどが森林で、緑(みどり)あふれる山々(やまやま)と清(きよ)らかな水の流(なが)れなど、豊(ゆた)かな自然(しぜん)にめぐまれています。特(とく)に北部(ほくぶ)の京北地域(けいほくちいき)は93%が森林であり、「北山杉(きたやますぎ)」で知られる磨(みが)き丸太の産地(さんち)として有名(ゆうめい)です。
 南部(なんぶ)は桂川(かつらがわ)にそって土地がなだらかに傾斜(けいしゃ)(=ななめにかたむくこと)しています。桂川(かつらがわ)が流(なが)れる嵯峨(さが)・嵐山(あらしやま)の辺(あた)りは、桜(さくら)や紅葉(こうよう)が美(うつく)しく、平安時代(へいあんじだい)に貴族(きぞく)の別荘地(べっそうち)になってから、京都(きょうと)の代表的(だいひょうてき)な景勝地(けいしょうち)(=景色(けしき)が美(うつく)しい土地)のひとつになっています。区(く)の面積(めんせき)は291.95平方(へいほう)キロメートルで、市の面積(めんせき)の35%パーセントもあり、一番大きな区(く)です。また、人口も20万人をこえ、市で2番目に多い区(く)です。

 

右京区(うきょうく)のれきし

桂川


 右京の歴史(れきし)は古く、平安京(へいあんきょう)より前に朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からやってきた秦氏(はたし)がこの地方を中心に活躍(かつやく)していました。
 秦氏(はたし)は、産業(さんぎょう)に関(かん)する新しい知識(ちしき)、特(とく)に織物(おりもの)の技術(ぎじゅつ)に優(すぐ)れていました。太秦(うずまさ)という地名も、秦氏(はたし)に由来(ゆらい)するものです。戦国時代(せんごくじだい)からは、桂川(かつらがわ)を利用(りよう)してたくさんの物(もの)が運(はこ)ばれるようになり、材木(ざいもく)の多くは桂川(かつらがわ)を通じて都(みやこ)に運(はこ)ばれていました。
 右京区(うきょうく)は、昭和(しょうわ)6年(1931年)4月に、嵯峨町(さがちょう)と花園(はなぞの)・西院(さいいん)・太秦(うずまさ)・梅ヶ畑(うめがはた)・梅津(うめづ)・京極(きょうごく)・松尾(まつお)・桂(かつら)・川岡(かわおか)のそれぞれの村の1町9村が京都市(きょうとし)に取(と)り入れられて生まれました。その後、大江村(おおえむら)・大原野村(おおはらのむら)が入り、昭和(しょうわ)51年(1976年)10月に桂川(かつらがわ)から西が西京区(にしきょうく)となり、分かれました。平成(へいせい)17年(2005年)4月に京北町(けいほくちょう)が入り今の右京区(うきょうく)になりました。

 

右京区(うきょうく)のみどころ

 春は桜(さくら)の御室(おむろ)、夏は新緑(しんりょく)の嵐山(あらしやま)、秋は紅葉(こうよう)の高雄(たかお)、冬は雪の嵯峨(さが)など、右京区(うきょうく)には全国的(ぜんこくてき)に有名(ゆうめい)な名所(めいしょ)があります。また、太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)にある国宝(こくほう)第1号(だいいちごう)の弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)のほか、区内(くない)には、京都市(きょうとし)全体(ぜんたい)の4分の1をこえる57件(けん)の国宝(こくほう)があり、世界文化遺産(せかいぶんかいさん)に登録(とうろく)された仁和寺(にんなじ)、高山寺(こうざんじ)、天龍寺(てんりゅうじ)、龍安寺(りょうあんじ)、そして国の天然記念物(てんねんきねんぶつ)の九重桜(ここのえざくら)で知られる常照皇寺(じょうしょうこうじ)など、数多くの優(すぐ)れた文化財(ぶんかざい)にめぐまれています。
 桂川(かつらがわ)にかかる渡月橋(とげつきょう)は、月が橋(はし)をわたる様子(ようす)に見えるとして、鎌倉時代(かまくらじだい)の亀山天皇(かめやまてんのう)が名付(なづ)けたともいわれています。洪水(こうずい)のたびに何度(なんど)も流(なが)され、今の橋(はし)は昭和(しょうわ)9年(1934年)にできたもので、嵐山(あらしやま)の風景(ふうけい)がますます引き立つように考えて作られています。

  • 菜の花の咲く嵐山
  • 雪の嵯峨

 

右京区(うきょうく)のじまん

東映太秦映画村での撮影風景


 右京区(うきょうく)は映画産業(えいがさんぎょう)との関(かか)わりが深(ふか)いまちです。日本の映画(えいが)は京都(きょうと)で始(はじ)まったといわれます。その中心地の太秦(うずまさ)は「日本のハリウッド」とも呼(よ)ばれ「日本映画史(にほんえいがし)のふるさと」として知られています。映画(えいが)のまち・太秦(うずまさ)の始(はじ)まりは、大正(たいしょう)15年(1926年)で、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)という、当時、大変(たいへん)有名(ゆうめい)な俳優(はいゆう)が作った、阪妻(ばんつま)プロダクションによって、この地に最初(さいしょ)の撮影所(さつえいじょ)が建設(けんせつ)されました。その後も昭和初期(しょうわしょき)にかけて、次々(つぎつぎ)に新しい撮影所(さつえいじょ)が建設(けんせつ)されていきました。松竹(しょうちく)や大映(だいえい)、東映(とうえい)などの映画会社(えいががいしゃ)が撮影所(さつえいじょ)を開(ひら)き、太秦(うずまさ)は「映画(えいが)のまち」として発展(はってん)していきました。人々(ひとびと)の心に感動(かんどう)を与(あた)えた名作映画(めいさくえいが)の数々(かずかず)が、この太秦(うずまさ)で生み出されています。

「歴史都市(れきしとし)・京都(きょうと)から学ぶ-ジュニア日本文化検定(にほんぶんかけんてい)テキストブック-」から引用

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